秋山幸二は、西武の黄金期を支えた長距離バッターです。身体能力は非常に高く、ホームでのバク宙が後世に残るエピソードとして取り上げられますよ。
秋山幸二の名言は、どのようなものがあるのでしょうか?隠れた内容はあるのでしょう?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
秋山幸二の名言の意味とは?
秋山幸二の選手時代は5月になると大活躍する事から「ミスターメイ」と命名され、親しまれていました。走攻守の三拍子揃った選手で、どのチームも欲しがるスーパースターだったのです。
そんな有名人の名言が、こちらになります。
この内容は、監督時代にインタビューされて出た言葉です。
意味がこちらになります。
人は目の前に2通りの道があったらついつい安易なほうを選んでしまいます。
もしトレーニングで辛さから逃げ楽ばかりしていたら、いつまで経っても筋肉や体力がつきません。それは人生においても同じことです。
秋山幸二は、あえて辛い道を選ぶことを心掛けてきました。なぜなら日頃からその状況を体験していれば、プレッシャーのかかる状況下でも、いつも以上の能力を発揮できるのを知っていたからです。
毎日少しずつ自分への負荷をかけて成長を促せば、起きた問題がこなせるようになります。安易な道に逃げずに、あえて困難な道に挑戦していきましょう。名言には、このような内容が隠れていたのです。
秋山幸二とはどんな人?
秋山幸二は1962年の4月6日に生まれ、熊本県八代郡氷川町の出身。父はハイジャンプ・母は砲丸投げの元選手という、サラブレッドとして育ったのです。そのせいか、身体能力はピカ一でした。
ホームランを打った後のホームでのバク宙が有名ですが、小学校のころに体操選手にあこがれて、田んぼの稲わらの上で練習したようですよ。器械体操、陸上、水泳、サッカーもこなし、一番興味のあった野球を選んだのでした。
野球は小学3年生時に少年野球チームに入り、その後の中学校も続けたのです。そして高校熊本県立八代高等学校に進学し、身長が高い理由からピッチャーを任されました。
3年生時には春の九州大会で準優勝、夏に決勝で負けるという好成績を残したのです。
甲子園の道は閉ざされましたがプロのスカウトから勧誘され、ドラフト終了後にプロ入りを表明。巨人、阪急、広島との争奪戦の上、1981年1月にドラフト外で西武ライオンズへ入団することが決まったのです。
今日ではドラフト外でプロ野球選手になることは異例ですが、当時のプロ野球界ではドラフトから指名されていない選手を自由に獲得することができました。
現役の身長は186センチ・体重は86キロ。日米野球に出場した際はメジャーの選手に、身体能力を絶賛されていたのです。
秋山幸二の功績とは?
秋山幸二は西武ライオンズとダイエーホークスの2球団で、主軸として活躍しました。獲得したタイトルは、本塁打王1回・盗塁王1回・最多勝利打点2回。
表彰は、ベストナイン・ゴールデングラブ賞・月間MVP・正力松太郎賞・日本シリーズMVP・日本シリーズ優秀選手賞・オールスターゲームMVP・IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞と受賞しました。
現役時代のヒット数は2,157本で、当然のごとく名球会入りを果たしています。
引退後はソフトバンクの二軍監督やコーチ、そして一軍での監督をし、Aクラス5回・Bクラス1回。表彰も、パ・リーグ優勝監督賞とパ・リーグ最優秀監督賞を受賞しました。ここまででも、十分功績を残しています。
さらにダイエー時代は、後輩に大きな影響を与えていますよ。
秋山の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁、川崎宗則など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む。
引用:Wikipedia
このように、秋山幸二の残してきた功績は偉大でした。
秋山幸二が野球で成功した理由とは?
秋山幸二は、西武ライオンズで11年・ダイエーホークスで9年の合計20年。引退後はソフトバンクのコーチや監督を8年と、野球人生を全うしました。その後、野球解説者・野球評論家と活動を続け、野球で成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?やはり、「目の前に二つ道があったら辛い方へ進め」の名言が、大きくかかわっているのです。
以下のエピソードがあります。秋山幸二はこのような逆境を糧にして、練習に取り組んでいたのです。
1981年、西武のユニフォームに袖を通した秋山の背番号は「71」。ズシリと重い番号に「情けなかった」と振り返る。1年目の後半、9月29日の日生球場での近鉄戦。プロデビューを果たした秋山に対して、スタンドから「オマエはコーチか!」と、痛烈なヤジ。温厚な秋山も、これにはさすがに頭にきて、「絶対、若い番号をもらってやる」と誓ったという。
引用:スポニチアネックス
猛練習に取り組み、翌年には成績を上げて24番の背番号を手にしました。
名言の通りに日頃から自分を追い込むことを念頭に置き、行動に移していたのです。そのため練習量が豊富で筋肉の量も人並み外れ、メジャーリーグに一番近い男とも言われていました。
1982年から3度の野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日 – 8月28日と(ヒューストン・アストロズのアリゾナ教育L参加部隊)アリゾナ・アストロズでプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている(他方で、精神的な準備面から「実際にメジャーリーグに行っていたら、成功するのは難しかったと思う」とも述べている)。ラルフ・ブライアントも「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている。
引用:Wikipedia
また後輩たちはこのように言っていたので、善き先輩だったようですね。
小久保は王と秋山について「尊敬する野球人」と述べ、秋山に対する印象を質問されて「常にプロ意識を持っていた。『できないのは選手が悪い、プロならできて当たり前』という考え方。決して『人間ならそのくらいにミスはあるさ』といった姿勢がみられない。言い訳をしない。その姿勢と意識の高さを学んできた。」、松中も「秋山さんはプレーで示してくださる方でした。秋山さんのプレーからは、チームを引っ張るには、ああいうプレーが必要なんだと、感じるものがありました」と語っている。川崎は「何も語らない人だった。その代わりに、いつも球場にいた。何歳になっても誰よりも長くグラウンドにいるのが秋山先輩だった。一番最初に打って、若い選手と一緒に最後までいる、その姿に教えられることは多かった」と著書に記している。
引用:Wikipedia
さらに野球人として成功する秘訣を、講演で語っていますよ。
「入団すると周りにはすごい選手がたくさんいた。しばらくすると清原和博も入ってきて、彼の存在も励みになった。身近なところに目標を作って、あいつには負けたくない、こんなプレーがしたいと思うようになるとどんどん強くなれる。練習するとき、もう一人のコーチを自分の中において、自分を客観的に見ながらトレーニングをしていた」
引用:熊本学園大学
やはり何か目的を持って練習をすることが、重要になってくるのでしょうね。
このように秋山幸二は、目標を置いて練習したこと。日頃からあえて辛い内容を選択して取り組んだことが、野球で成功した理由ではないでしょうか?
私は世間で名を残したいと思い、日々奮闘しています。そのため目標となる人を念頭に置き、頑張っていますよ。また文章のスペシャリストになりたいと、毎日記事を書くことも怠っていません。私も秋山幸二のように目標を定め、成功に向けて頑張ろうと誓いました。
まとめ
秋山幸二は現役引退後の監督時代も、パワーを見せつけていました。
現役引退から時間が経ったソフトバンク監督時代(当時47 – 52歳)においても、選手の打撃練習に加わってホームランを放つ、ブルペンで100球以上投げ込み球速は130キロ以上を記録するなど高い身体能力を維持しており、その信憑性からエイプリルフールのネタとして秋山の現役復帰が発表されたこともあった。
引用:Wikipedia
なんという身体能力でしょう。脱帽です。
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