江川卓は、怪物と呼ばれた名ピッチャーです!数々の記録を作り上げましたよ。
江川卓の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた意味はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
江川卓の名言の意味とは?
江川卓の現役時代は、球が早くて本格派のピッチャーでした。プロの球団が取り合うほどの、素晴らしい選手だったのです。
そんな有名人の名言がこちらになります。
この内容は、現役時にインタビューされて出た言葉です。ユーモアが溢れたというかなんというか。。。
意味がこちらになります。
江川卓は、ピッチャーとして巨人軍に入団しました。だからその右腕が折れてしまえば思うように投球ができず、チームに貢献できないと思ったのです。それだけピッチャーというポジションに対し、強い思いで臨んでいた証拠なのでしょうね。
確かにプロの世界では、ピッチャーから他のポジションにコンバートされる選手が何人かおられます。だけど江川卓は、投手として貫き通すプライドを捨てずにいたのです。
このポジションがダメなら、引退ということを思っていたのでしょう。それくらいに名言からは、強い意思が伝わってきます。この言葉には、奥が深い内容が隠れていたのです。
江川卓はどんな人?
江川卓は1955年5月25日生まれで、福島県いわき市の出身。いちごやウニが特産物の場所ですね。
父親は鉱山技師だったため幼少期をいわき市で過ごしますが、少年時代を静岡県浜松市に移って過ごしたのです。江川卓は小さいころにグローブやバットを買ってもらっていたので、自然と野球に打ち込んでいったのでした。
中学に入っても野球部に所属しますが、今度は中学2年生のときに父の転勤により栃木県小山市に転居。このころにはすでにピッチャーとしての頭角を現し、栃木県でノーヒットんーランを記録しチーム優勝に導いていたのです。
高校は東京六大学野球に出る夢があり、進学コースのある作新学院に入学。高3の春夏通じて甲子園に出場し、超高校級の豪腕投手として驚異的な記録を残したのです。
その後に大学は、法政大学に進学。輝かしい記録を打ちたてプロ入りすることになりますが、すったもんだと騒動に巻き込まれることに。
結局、阪神が江川との交渉権を獲得したためいったん阪神に入団し、小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになったのです。大変な騒動になったようですよ。
現役時の身長183センチ・体重90キロ。太っているイメージが強いですね。
江川卓の功績とは?
江川卓は、巨人で9年間をエースとして投げ抜きました。その間に獲得したタイトルは、最多勝利:2回 ・最優秀防御率:1回・最多奪三振:3回 ・最高勝率:2回。
表彰は、最優秀選手:1回 ・ベストナイン:2回・月間MVP:2回・最優秀投手:2回・日本シリーズ優秀選手賞:1回・オールスターゲームMVP:1回・後楽園MVP賞:1回・ジュニアオールスターゲーム最優秀投手賞:1回 。
プロ通算で135勝のため、残念ながら名球会入りを果たせていません。それでも輝かしい功績を残しています。
引退後は、野球解説者・タレントとして活躍していますよ。私としては、江川卓の監督を見てみたいですね。どのような采配ができるのか、興味津々です。
江川卓が成功した理由とは?
江川卓は巨人軍として9年間在籍し、引退後に日本テレビで番組を持っています。プロ野球選手からタレントに変わり、仕事も安定しているのです。
ここまでくれば、成功したと言っても過言ではありません。では、なぜ成功できたのか?
やはり、「腕が折れても投げるって、腕が折れたら生活できないでしょ。」の名言が、大きくかかわっているのです。
というのも江川卓はピッチャーとしてのプライドが高く、バッターと真っ向勝負していました。エピソードがこちら。
阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている
引用:Wikipedia
記録がかかっていることに対して自分を追い込み、それを糧にして勝負を挑む姿がメチャメチャカッコいいです。勇士ある行動が相手バッターにも伝わることで、上記のように言われたのでしょうね。
また次の登板を考えて、バッター心理も考えていたのです。
9回を完投するため、中心バッターには「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている。
引用:Wikipedia
江川卓は社交性が豊かだったことも、人との繋がりに影響を与えていたのです。取材した人物がこう語っていますよ。
今回の取材で、江川氏とその周辺を結ぶ「糸」みたいなものが見えてきました。社交性豊かな同氏は、試合で自軍が負けると、その直後に必ず敵チームに電話を入れたり、直接練習グラウンドに姿を見せて「次も頑張れよ」と激励しています。
それは、高校野球の現場を通じて、甲子園という共通の目標に向けて厳しい練習に明け暮れる中、「お互いに頑張ろうな」とか「いい試合ができてよかった」というアイデンティティーの確認と、メッセージだったのだろうと思うのです。
江川氏は敵、味方を問わず、そんな「仲間たち」との会話を大事にしていました。深い親交を続けるのが、なぜか、ピッチングの際の「会話」の相手、捕手に多いことと無関係ではないでしょう。
引用:日刊スポーツ
敵味方に関わらず、気遣いができることも重要だったのでしょうね。
以上のことから江川卓は、与えられた仕事にプライドを持って臨んでいたこと。人に対する気遣いを忘れずに常に接していたことが、勝ち組として成功できた理由ではないでしょうか。
私は世間に名を残したいと思い、いろいろ頑張っています。中でも文章力を付けたいと、写経の練習に取り組んでいるのです。
お手本の本を書き写すこと
成果が出ているのかプライベートでの役職で、書類作成やメールのやり取りを任されるようになりました。努力の賜物が出てきたのかもしれません。今後も一生懸命取り組み、江川卓のように成功したいと心に誓ったのです。
まとめ
江川卓の人柄は、テレビでも放映されていました。こういう些細なことが、好感を持たれるのでしょうね。
テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。
引用:Wikipedia
やはり、なんどきでも謙虚に行動しないといけません。納得できました。
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