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長谷川滋利の名言!「励ましの言葉は…」に隠された内容とは?

元プロ野球選手
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長谷川滋利はせがわしげとしは、頭脳派の元ピッチャーです!パリーグを引っ張る形で、日本球界を盛り上げてくれましたよ。
 
 
長谷川滋利の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 

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長谷川滋利の名言の意味とは?

 
現役時代は日本で「シゲ」という愛称で、メジャーでは「シギー」というニックネームで親しまれていた長谷川滋利。


 
 
そんな元プロ野球選手の名言を紹介しますね。
 
 
こちらです。
 

励ましの言葉は、相手の悲しい気持ちに「共感」していることを伝えるのがコツ。

 
優しさが自然と伝わってくる名言です。
 
 
意味がこちらになります。
 

もし相手が落ち込んでいる際の声掛けは、むやみやたらに励ますのではなく、気持ちに寄り添って自分自身も同じ感情を持っていることを表現するのが極意になるのだ。

 
あなたは落ち込んでいる人が目の前にいる時、ついついポジティブな考えを押し付けてしまっていませんか?それは逆効果になることが多いのです。

そういった時は、相手に寄り添う言葉をかけてあげましょう。まずは共感してあげることが必要です
 
 
もしあなたが落ち込んでいる時、周りの人から「もっと前向きに考えなよ!」と言われたらどう思いますか?「俺の気持ちも知らないくせに、ふざけんな!」こんな風に感じるでしょう。

その時に、「そうだよね、そういった状況なら辛いよね」と言ってもらえたら少し気持ちが楽になります。あなたがそう思うように、相手も同じなのです。
 
 
わかっているけど、なかなか実行できないのが現実。長谷川滋利の名言には、先を見越したアドバイスが隠れていたのです。
 

長谷川滋利とはどんな人?

 
長谷川滋利は1968年8月1日生まれで、兵庫県加古川市の出身です。子どものころから元気で親からも「ご飯をしっかり食べろ」と言われてすくすく育ちました。

ちなみに小学校1年の時に、父親の影響でソフトボールを始めたのが野球に関わるキッカケ。その後野球へと移行し、宝殿中学時代は投手として、第5回全国中学校軟式野球大会で優勝するまで成長しました。

高校は東洋大姫路高校に進学し、2年春、2年夏、3年夏甲子園出場。高2の夏は、ボールの投げ過ぎによる疲労骨折で代打要員。高3の夏は、ベスト8で敗退だったのです。


 
 
野球のイメージの方が強いですが、高校時代の成績は極めて優秀で、常に学年で10番以内だったようですよ。

その後、立命館大学のスポーツ推薦を受けて進学。ピッチャーとしては関西学生野球連盟で5度最優秀投手の表彰を受け、通算40勝を上げたのです。

好成績を残してスカウトの注目となり、1990年のドラフトで、オリックスの1位指名を受け入団しました。
 
 
現役時代の身長は180センチ、体重は78キロ。細マッチョの体格ですね。
 

長谷川滋利の功績とは?

 
長谷川滋利はオリックスに6年・メジャーのエンゼルスに5年・マリナーズに4年と、チームを渡り歩きました。その間の表彰は、新人王・月間MVP・サンスポMVP新人賞と受賞日米通算102勝(日57/米45)をあげましたが、残念ながら名球会入りしていません。

ただ中継ぎ投手だったのでチームの縁の下の力持ち的存在で、重宝されたのです。


 
 
引退後は、アメリカ本土からMLB公式戦中継を放送する際の解説者。その他メディアの出演も多いです。

また英語が得意で、現役時から経済書を愛読していました。ロッカールームでウォールストリート・ジャーナルを読む唯一のメジャーリーガーと囁かれていたほど、ビジネスマンとしての資質があるとの声も多かったみたいですよ。その関係もあり、現在も手広く活躍しているのでしょうね。
 

長谷川滋利が勝ち組として成功した理由とは?

 
長谷川滋利は日本球界で6年、・メジャーで9年の野球人生を全うしました。さらに引退後は、野球評論家や野球解説者。オリックス・バファローズのシニアアドバイザー(SA)を務め、ゴルフや投資と、多岐にわたって活躍しています。

勝ち組として成功したと言っても、過言ではないでしょうね。


 
 
では、なぜ成功できたのか?

なぜなら、「励ましの言葉は、相手の悲しい気持ちに「共感」していることを伝えるのがコツ」の名言が、大きくかかわっています。
 
 
というのも人の気持ちを先読みして心をつかむことが得意な長谷川滋利は、先見の明があったのです。そのことを物語る内容を、引退後に語っていますよ。
 

「厳しいプロの世界で15年もやってこれたので、満足できています。それに中学・高校のときから、野球選手になれなかった場合のバックアッププランを持っていたんです。野球でなければ商社マンになりたかった。

引退した後も、大リーグ中継の仕事はしばらく抑えて、本を読んだり、コーチングを勉強しなおしたり、ウェブサイトを構えたりと忙しかった。野球のことだけでもやっていける自信はありますが、僕は他人とは別の考え方ができた」

引用:PRESIDENT Online

 
さらに驚くことに野茂英雄がメジャーリーグに渡る以前から、夢のメジャー移籍に向けて準備をしていたようです。このようなエピソードがあります。
 

1997年1月に日本人初となる金銭トレードでオリックス・ブルーウェーブからアナハイム・エンゼルス(いずれも当時)に移籍した長谷川滋利氏は、実は1995年に野茂氏が海を渡る以前から、メジャー移籍に向けた準備を進めていたという。

「オリックス時代からオフの自主トレを米西海岸にするなどアメリカでの生活を見据えていました。昔からアメリカの生活に憧れていたので日本球界とケンカ別れせずに、円満にメジャー移籍する道を模索していました。当時は日米間の移籍ルールがなく、いろいろと交渉しているうちに野茂君が先にメジャーに旅立ってしまったんです」

引用:NEWSポストセブン

 
実際に野茂英雄からとのやりとりを、このように言っていますよ。
 

「どうやって僕の電話番号を知ったのかわからないけど(笑い)、わざわざ電話をかけてきてくれた。野茂君は『お前は低めにしっかりと投げさえすれば、絶対メジャーで通用するから』といってくれました。本当に嬉しかったですね。円満な移籍をさせてもらえた僕を『羨ましい』とも話していた」

引用:NEWSポストセブン

 
これまでの経験から野球人生であったことを、このように言っています。
 

僕もオリックスに入団してメジャーに移籍するまで、つまり選手としてある程度の実績や経験を積むまでは、自分のトレーニングだけで精一杯だったと思います。それでもメジャーで3年4年と経験を積んでくると、力の抜きどころや球場にいる以外の時間の使い方がなんとなく分かってきます。

僕はその空いた時間を使って本を読んで、面白かったら著者にアポをとって会いにいってみたり、興味深い取り組みをしている企業の経営者と食事をしたりと、現役時代から動き回っていました。前述のようにアメリカは野球選手へのリスペクトが強い国ですので「マリナーズのハセガワが会いたいと言っている」といえば、多くの人は会ってくれたという背景もあります。

その結果、「ああ、俺は野球以外のことにも興味あるし、挑戦してみたいな」と気付いてさらに勉強を重ねて、現役生活の最後のほうは「いつ引退しても大丈夫や」と思えるようになっていました。面白いものでそういう心境になってからは成績も上がったりもしました。

引用:現代ビジネス

 
いろいろ考えながらの行動が、重要になってくるのでしょうね。
 
 
以上のことから長谷川滋利は、何事にも先を見据えて考えるようにしていたこと。さらに、いろいろなことを実践するのに「善は急げ」と行動にうつしたことが、勝ち組として成功している理由ではないでしょうか?
 
 
私は世間に名を残したいと思い、毎日頑張っています。その中でも基本となる文章力を付けようと、お手本の書籍を書き写す写経を毎日実践していますよ。

文章力がアップしからかプライベートの役職で、書類作成やメールの応答を任されるようになりました。成果が出ていると感じますね。この時点で満足せず、長谷川滋利のようにさらに成長して勝ち組になろうと心に誓いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
長谷川滋利は現代の中学や高校の投球制限について、一刀両断していますよ。
 

「プロ野球を目指す選手は数%しかいない、という人もいますが、そうじゃない。将来的に野球をやらない人なら肘や肩をケガしてもいいのか、ということです。私の周りにも高校時代のケガで肘が曲がらない人もいます。肘が曲がらない、肩が上がらないことで仕事ができなくなる人もいます。手術して直した場合の費用は個人負担でしょ? 昔の話として終わらせること自体がおかしい」

引用:Full-Count

 
実際に肩を壊す選手がいっぱいいます。未来ある野球の世界が生まれることを、願いたいです。
 
 
 

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