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東尾修の名言!「200勝までは自分のために…」に隠れた内容とは?

元プロ野球選手

 
 
東尾修ひがしおおさむは、西武ライオンズの監督として知られています!現役当時は、勝ち星を251まで伸ばした伝説の投手。
 
 
そんな東尾修の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 


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東尾修の名言の意味とは?

 
東尾修は名球会にも入っている、素晴らしい投手だったのです。そんな人物の名言がこちらになります。
 

200勝までは自分のために投げていたけど、残りの51勝はチームのために投げていた。

 
これは1999年に西武の監督をされている際、インタビューで答えた言葉です。
 
 
意味がこちらになります。
 

区切りのいい時点までは自分自身のために頑張ったけど、過ぎてしまえば自分より仲間が大事なのだ。

 
きっと東尾修の途中までは、勝ち続けていることは自分のためだけだったのでしょうね。でも長いあいだ投手として貢献し続けていたことで、チームへの愛着が湧いたのです。


 
 
その結果、自分のためだけでなく球団の投手として活躍しました。人は他人のためには、メリットが無いとなかなか頑張れない生き物です。

ただ利己的に生きている人は好かれませんが、利他的に生きてい人は慕われる結果が出ています。他者に尽くせば、自然と力が出るのです。私たちもそのことを忘れず生きていきたいですね。
 

東尾修とはどんな人?

 
東尾修は1950年の5月18日生まれで、和歌山県の有田郡出身です。御霊小学校時代から野球をはじめ、中学でも続けましたが大会で優勝できるレベルではありませんでした。

高校は甲子園を目指し、京都の平安高校に進学しようと考えました。だけど箕島高校から強く誘いがあり、同校に入学することになります。

野球部に入部した東尾修は、4番のエースとして1967年秋季近畿大会決勝に進出。準優勝でしたが、1968年の春に選抜への出場を決めました。箕島高校は甲子園初出場で、同大会は準決勝まで進んだのです。

同年夏の甲子園県予選では2回戦で負けましたが、選抜での活躍で東尾修の名は全国的に有名になりました。そして1968年のドラフト会議では、西鉄ライオンズから1位指名を受けたのです。

様々な葛藤がありつつも入団しました。だけど東尾修は周囲のレベルの高さにたじろぎ、自信をなくしてしまったのです。1年目の夏には「このままでは、いつまで経ってもプロでは通用しない・・・」と考えるほどだったと言います。


 
 
しかし、1969年に「黒い霧事件」という野球界を揺るがす八百長事件が発生。西鉄ライオンズの主力投手が永久追放されたことをきっかけに、一軍での投手として任されることになったのです。

当時の投手コーチから才能を見込まれ、シュートを習って連日350球越えの投げ込みを命じられたと言われています。その結果もあり、徐々に頭角を現した東尾修はチームを1982年と翌年の1983年に2年連続リーグ優勝に導いたのです。
 
 
身長は177センチで体重は79キロ。現代のピッチャーとしては、小柄な体系になるのでしょうね。
 

東尾修の功績とは?

 
東尾修の現役時は、最多勝2回・最優秀防御率1回・最多奪三振1回。その他にも賞としては、MVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞などを受賞しています。個人としての功績は、十分すぎるほど残しました。

さらに大きく貢献したのは、なんと言っても西鉄ライオンズが八百長問題の発覚時にチームを支えたところだと思います。

1972年にこのことが原因で西日本鉄道は、球団経営を放棄しました。その後は太平洋クラブライオンズからクラウンライターライオンズとチーム名が変わり、常にとても不安定な経営状態だったのです。


 
 
それでも東尾修は、チームが苦しい時にエースとしてみんなを支えました。

1977年に巨人から引き抜きの交渉があったのです。しかし当時の経営陣は、「東尾修を手放すことは球団の死だ、それは絶対にあり得ない。」という意見を発表しました。それだけチームにとって、かけがえのない存在になっていたのです。
 
 
現役を引退後は、西武ライオンズの監督として就任。退任後は、テレビやラジオなどで野球解説者としてタレント活動しています。娘さんはプロゴルファーであり、石田純一と結婚した東尾理子。十分に日本の野球界や芸能界でも、大きな貢献をしたと言えるのではないでしょうか?
 

東尾修が野球で成功した理由とは?

 
東尾修は、プロ野球で投手として20年。また監督として7年連続Aクラス。引退後は野球解説者に復帰と、野球で成功したと言っても過言ではありません。


 
 
では、なぜ成功できたのか?
 
 
やはり、 「200勝までは自分のために投げていたけど、残りの51勝はチームのために投げていた。」という名言が大きくかかわってくるのでしょうね。

というのも東尾修のプロ野球人生で選手と監督時代は、西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ・西武ライオンズ。すべて現在の西武に在籍しているのです。そのため選手時にチームの貢献度も高く、西武の黄金期を支えていました。
 
 
エピソードがこちらになります。
 

広岡監督が就任1年目の1982年、翌1983年と2年連続リーグ優勝、日本一を達成し、1985年にもリーグ優勝する。東尾はこれら3度の日本シリーズでは全てリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝き、胴上げ投手にもなっている(対中日戦、大島康徳から三振)。なお、投手が救援登板のみでMVPを獲得したのは日本シリーズ史上初で、2017年の日本シリーズでデニス・サファテ(ソフトバンク)がMVPを獲得するまでは唯一の記録だった。1983年には2度目の最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、パ・リーグMVPなど数々のタイトルを獲得している。

引用:Wikipedia

 
さらにケンカ投法という攻撃的な技を編み出し、スライダーとシュートを最大限に活かしてチームに貢献していたのです。結果的にお客さんから喜ばれ、大きなパフォーマンス性を生み出していました。
 
 
こんなことも言っています。
 

ある試合中に広瀬が東尾と対戦した際、カットしてファウルにし続けたところ、激高した東尾がマウンドから降りてきて「小僧、いつまでファウルにしとるんや。早く凡退せえ、コノヤロー!!」と怒鳴られた、というエピソードを紹介している。東尾本人もこのことを認めており、「だって客が飽きているんですよ。『お前のファウルなんか見せられて誰が喜ぶんだ』と頭にきて、つい怒鳴ってしまった」と述懐している。

引用:Wikipedia

 
お客さんを満足させようとする心意気。試合中に怒鳴るのはダメな行為ですが、この男気が結果的に、チームや観客を盛り上げてくれたのです。
 
 
また監督時代は徹底的に勝つことにこだわり、Aクラスを維持していました。エピソードがこちらになります。
 

野手や打撃面に関する采配については必ずしも的確だったとは言えないが、黄金期が終焉を迎え戦力面に関しては過渡期であった中で世代交代を果たしつつAクラスを常に維持した。また、これらの奇策には前述のように黄金期の主力野手(石毛や清原など)が次々に退団し、俊足巧打で守備力もあるが長打力に欠ける若手選手が多く残されたというチーム事情の中で真剣に勝つことを模索した結果、生み出されたものも多い。

引用:Wikipedia

 
このようにまずはチームのことを考えての監督采配が、功を奏したのではないでしょうか?
 
 
以上のことから東尾修が野球で成功した理由は、自分のことより誰よりもチームを愛したこと。そして球団のことを考えてチームの勝利に熟慮したことが、成功できた理由ではないでしょうか?
 
 
私はプライベートで役職を引き受けていますが、事務作業がほとんどボランティア行為です。作業をしても、お金がもらえるわけではありません。しかしせっかく与えられた仕事は、シッカリこなそうと思って実行しています。だって頼られたことは、ありがたいですからね。

私も東尾修のように、人のために役に立てるよう頑張ろうと思いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
東尾修は後輩のために、直談判したことがあるのです。
 

清原和博は新人時代門限を破り高額の罰金を球団から請求された時東尾が球団と話し合いし罰金が減額されたことがあった。

引用:Wikipedia

 
男気ある行動は、後輩にとって心強いですね。こんな風にすることで結果的に慕われるようになり、成功へとつながったのではないでしょうか?見習わないといけませんね。
 
 
 


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