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岩瀬仁紀の名言!「そもそも僕は、自分自身に…」に隠された内容とは?

元プロ野球選手
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岩瀬仁紀いわせひときは、中日ドラゴンズで活躍した抑え投手!日本プロ野球界において、さまざまな記録を打ち立てましたよ。
 
 
そんな岩瀬仁紀の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 

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岩瀬仁紀の名言の意味とは?

 
岩瀬仁紀は名球会入りするだけあって、最多登板数・通算セーブ数の記録を持っている人物です。恐るべき成績を残している、有名人の名言がこちらになります。
 

そもそも僕は、自分自身に興味がないから。

 
なんと素っ気ない言葉・・・。
 
 
この内容は、現役での1,000試合登板に向けて残り4試合に迫る際に、元中日エースの川上憲伸がインタビューして出た言葉です。意味がこちらになります。
 

自分自身の記録にこだわりが無く、どんな形でもいいから、チームに貢献できればいいのです。

 
素晴らしい人だと思いませんか?
 
 
岩瀬仁紀が記録した1,000試合登板の記録は、現在活躍しているプロ野球選手でも更新が不可能と言われている数字になります。過去に名球会入りしている伝説の投手、米田哲也・金田正一の記録を50試合以上も抜いているのです。
 
 
以下に、記録の10傑を記載してみますね。
 

◯NPBの登板数10傑 ()は実働期間、所属があるのは現役投手

1 岩瀬仁紀 1002登板(1999-2018)
2 米田哲也 949登板(1956-1977)
3 金田正一 944登板(1950-1969)
4 梶本隆夫 867登板(1954-1973)
5 小山正明 856登板(1953-1973)
6 江夏豊 829登板(1967-1984)
7 五十嵐亮太(ヤ) 777登板(1999-2018)
8 皆川睦雄 759登板(1954-1971)
9 稲尾和久 756登板(1956-1969)
10 鹿取義隆 755登板(1979-1997)

引用:Full-Count

 
7位に現役選手の五十嵐良太は入っていますが、220試合も差が開いています。米田哲也の949登板は、「絶対破れない記録」と言われていました。そんなことも気にせず、結果的に記録更新した岩瀬仁紀です。無心でチームに貢献した賜物ではないでしょうか?


 
 
もしあなたの周りで会社や家族のためだけに働いている人がいれば、尊敬できる人物と思いませんか?地道に中日ドラゴンズを、支えていた投手なのです。
 

岩瀬仁紀はどんな人?

 
岩瀬仁紀は1974年11月10日生まれで、愛知県西尾市出身です。抹茶の産地として有名な場所になります。


 
 
野球を始めたのは寺津小学校2年生の時で、愛知衣浦リトルリーグに入りました。この時から家の近くにある800mの農道を、毎日5週していたというから驚き。

寺津中学校に進むと運動神経抜群で何をさせてもうまく、ピッチャーでも球が速かったのです。しかし高校は愛知県内の強豪校から誘いが無く、愛知県立西尾東高校に入学。エースで4番と活躍し、愛知大会2回戦で三好高校を相手にノーヒットノーランを記録したのです。

ただ甲子園出場は叶わず、卒業後は愛知大学へ進学しました。ここから打者・投手として活躍し、外野手でベストナインを4度受賞したのです。

大学の卒業後は社会人野球のNTT東海に入社し、その後プロからスカウトされて、1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名して2位で入団しました。
 
 
現役時の身長は181センチ・体重84キロ。投手としては、一般的な体格ではないでしょうか。
 

岩瀬仁紀の功績とは?

 
岩瀬仁紀は、中日一筋19年を地道に頑張りました。その間に獲得したタイトルは、最優秀中継ぎ投手3回・最多セーブ投手5回。また表彰は、月間MVP・カムバック賞・コミッショナー特別表彰など多くを受賞しました。


 
 
なんといっても素晴らしいのは、1,002登板と407セーブの日本記録を樹立しているのです。当然のごとく、名球会入りを果たしています。ここまでいくと日本球界で、功績をあげまくっていますよね。
 
 
さらに引退後は、野球解説者・NHKゲストの解説者、中日スポーツの野球評論家と、野球に関して活動を続けています。岩瀬仁紀が残した功績は、本当に大きなものでした。
 

岩瀬仁紀が野球で成功した理由とは?

 
岩瀬仁紀はプロ野球人生を、中日ドラゴンズに捧げました。その間に様々な日本記録を打ち立て、引退後も野球に関係した仕事を行っています。ここまでくれば、野球で成功したと言っても過言ではありません。


 
 
では、なぜ成功できたのか?やはり、「そもそも僕は、自分自身に興味がないから。」という名言が、大きくかかわってくるのです。
 
 
岩瀬仁紀は抑えの切り札として、中日をけん引していました。肝となる持ち球は球界屈指のスライダーで、打者のひざ元まで回り込んでいくほどのキレがあったのです。それを使って、チームに貢献していました。

実際に、プロ入りの1999年から2013年まで、15年連続で50試合以上登板を記録。また日本シリーズを6度経験し、一度も失点されたことがないから驚きです。
 
 
当時の監督をしていた落合博満は、このように言っていますよ。
 

「(私が監督をやった)8年間というのは、岩瀬が特別な存在だった。まず抑えに岩瀬がいるという事を考えて、このチームを作り上げた。私にとって岩瀬は投手陣の中では特別な存在だった」

引用:CBC ドラの巻

 
同僚だった立浪和義も、スライダーと1,000試合登板の偉業について以下のように伝えています。
 

「全盛期は後ろで守っていて打たれる感覚がしなかったです。特に(ジャイアンツの)松井秀喜選手やペタジーニは、からっきし打てなかったですから。それほどスライダーの曲がりがすごかったんです」と強打者との対戦を例に挙げ、岩瀬投手の伝家の宝刀の威力を評価。

1000試合登板の偉業達成の秘訣については「体の強さももちろんですが、精神的にタフなところです。今後も抜かれることのない記録だと思います」と強靭なメンタルの賜物であると讃えておられました。

引用:CBC ドラの巻

 
監督や同僚に絶賛されるとは、絶対的な信頼を得ていたんですね。
 
 
過去に落合博満と立浪和義について、書いた記事があります。お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。

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また日ごろから飾らない性格で、チームのために謙虚に登板していたのです。普段からインタビューされても、以下のように淡々と答えていました。
 

「どんな形でも、チームが勝てばいい」という気持ちでマウンドにあがっており、自身の記録にはあまりこだわりがないようである。また、「記録は引退後に振り返ればいい」とも語っている。

引用:Wikipedia

 
なんと素晴らしい人物でしょう。完全中日ドラゴンズに、人生を託していますね。
 
 
以上のことから岩瀬仁紀は、持ち球のスライダーと強靭なメンタルを持っていた。そして、見返りを求めず、真っ先にチームの勝利を考えていたことが、野球で成功できた理由ではないでしょうか?
 
 
私は世間に名を残したいと、日々奮闘しています。まず文章力を付けたいと思い、お手本の本を書き写す写経を毎日実践していますね。何かと突出した持ち味がないと、輝けません。

またプライベートで役職を任されていますが、与えられた作業はたとえ金銭が絡まなくても率先して行うようにしていますよ。
 
 
まずはどんなことも見返りを求めず、進んですることが大事。私は岩瀬仁紀を見習い、謙虚に何に対しても頑張ろうと思いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
岩瀬仁紀は救援投手として頑張った結果、以下の項目が必要と分かったようです。
 

岩瀬が救援投手の条件としてあげる4項目がある。

 (1)三振を奪えること
 (2)四球を出さないこと
 (3)盗塁されないこと
 (4)フィールディングがうまいこと

引用:Number

 
経験して初めてわかることが、一杯あるのでしょうね。次に抑え投手でいろんなタイトルを狙えそうな人物は、楽天の松井裕樹かもしれません。
 
 
岩瀬仁紀が今後指導者として、ユニフォームに袖を通すのを期待しましょう。
 
 
 

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