掛布雅之は、4代目のミスタータイガースと言われた人物。全盛期はホームランを40本以上も、かっ飛ばしていましたよ。
そんな掛布雅之の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
掛布雅之の名言の意味とは?
掛布雅之は、阪神タイガースで4番を打っていた有名な人物。1985年には、リーグ優勝・日本一に貢献したのです。
名言がこちらになります。
この内容は、2013年のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)時に、インタビューされて出た言葉ですね。
意味がこちらになります。
チームの顔として、自覚させる言葉ですね。
責任感というものは、人を大きく成長させます。もし無ければなんのプレッシャーも感じないので、飛躍することもありません。当然のごとく、1球1球に魂を込めている野球の世界では通用しないのです。
勝つか負けるかという極限状態が自身を大きく成長させ、他の選手の負担を軽減させます。主力選手がのびのびと活躍できれば、結果的に勝利にも結び付くのです。
掛布雅之のような4番打者がいて、阪神タイガースはとても心強かったと思いますよ。名言には、このような内容が隠れていたのです。
掛布雅之とはどんな人?
掛布雅之は1955年5月9日に母親の実家・新潟県三条市で生まれ、1歳の頃から父親の郷里千葉県千葉市中央区で育ちました。千葉県千葉市と言えば、幕張メッセがある場所ですね。
幼少期は野球ではなく剣道を始めましたが、防具を買ってもらえずに断念。その後、父のすすめもあって野球を始めたのです。
小中は野球漬けで過ごし、メキメキと上達して高校は習志野高校に進学。2年生時に四番・遊撃手として1972年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、甲子園出場を果たしました。残念ながら3年生時は準々決勝で木更津中央にサヨナラ負けをし、甲子園には届かなかったのです。
その後、1973年に阪神タイガースの入団テストを受け実力が認められ、ドラフト6位指名されて入団することになりました。
現役時代の身長が175センチ・体重77キロ。小さい体でのホームランバッターだったので、当時の日米野球で対戦したメジャーリーグ選手に驚かれていたようですよ。
掛布雅之の功績とは?
掛布雅之は高校を卒業して15年、阪神タイガースに在籍しました。その間には、本塁打王3回・打点王1回・最多出塁数2回。通算で1,656本のヒットを打ちましたが、残念なが名球会入りを果たせませんでした。
それでも表彰は、ベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞・オールスターゲームMVP・月間MVP・ベスト・ファーザー イエローリボン賞と、多くを受賞していますよ。
ここまででも阪神タイガースはもちろんのこと、日本プロ野球界でも大きな功績を残したのです。
引退後はメディアでもいろいろ出演し、活躍の場を広げています。さらに『新・巨人の星』・『野球狂の詩』・『すすめ!!パイレーツ』といった、漫画にも出場しているのが驚きですね。
ちなみに掛布雅之は阪神タイガースだけ在籍の、33歳の若さで引退しました。4番が務まらないと思い、ユニホームを脱いだのです。惜しまれながら球場全員が涙するのは、阪神愛が強く責任感のある男だったのでしょうね。
掛布雅之が野球で成功した理由とは?
掛布雅之は、阪神タイガースで15年の野球人生を全うしました。その後、野球評論家や野球解説者、DC(ゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター)や二軍監督と、野球に関わってきたのです。ここまでいくと、野球で成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?やはり、「4番が負けの責任を一人で負うことで、他の選手の負担を減らせるんです。」の名言が、大きくかかわってくるのです。
というのも、掛布雅之が入団した当時はチームの主砲が田淵幸一で、4番としてチームを引っ張る大きな存在でした。しかし1978年のオフに西武ライオンズへ移籍。
その際にこれまで負担を軽減させてもらっていたことがわかり、改めて主砲の偉大さを実感したのです。それから掛布雅之は中距離打者でしたが、4番として長距離打者になる道を選びました。
練習に取り組む姿勢は凄く、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏がこのように言ていましたよ。
私の記憶の中に、いまだ鮮明に残っているのは、素振りである。全く人を寄せ付けない、凄まじい雰囲気の中で始まる。初めて遭遇したのは1983年、ハワイはマウイ島で行われたキャンプだった。場所はホテル前の浜辺。一人、黙々とバットを振る掛布がいた。バットを構える。一点をじっと見つめる。その目は鋭い。一本足で立つ。数十秒間静止する。精神を統一する。『ハッ』―気合の声を発してバットを振り下ろす。集中力を高める。何度も何度もスイングを繰り返す。まるで何かに取りつかれたようだ。他の事など見向きもしない。ピーンと張りつめた緊張感。周りはバリアで囲まれているかのようで、近寄れない雰囲気。よく目にした光景だったが、私、一度たりとも近づくことができなかった。野球に取り組む姿勢がかもし出すバリアなのか。威圧感を感じた。遠巻きに見ていて“凄い”のひと言。納得するまでその素振りは続いた。
引用:月刊タイガース
ホームランバッターになるために、いろいろ試行錯誤して考えていたようです。責任感が強く感じられますね。
また特徴のある一本足のバッティングホームだったのも理由があるようで、このように言っていますよ。
『僕は体が小さいので、それでいて遠くへ飛ばそうと思ったら、スエーではないけど、体をぶつけていかないとホームランを打てない。体を移動させるタイミングを計るためにやっていた』
引用:月刊タイガース
スウィング中に体を横方向に揺さぶる動きのゴルフ用語。
ホームの甲子園でホームランを量産するため、秘策も考えていました。
甲子園球場で本塁打を量産するために、左打者にとっては厄介な存在であった浜風と喧嘩するのではなく、逆に利用しようと研究を重ね、逆方向であるレフトスタンドへ本塁打を量産する、独特かつ芸術的な流し打ちを身に付けた。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターの一人となった。
引用:Wikipedia
研究の結果としてバッティングフォームも確立し、打率もアップにつながっているのです。ちなみにもっともホームランを打った1979年の成績が、打率327・ホームラン48・打点95。ここまでの成績があれば、何とも素晴らしいこと。
このように掛布雅之は、4番としての自覚と責任感ある行動をとったこと。またいろいろ試行錯誤しながら練習に取り組んだことが、野球で成功した理由ではないでしょうか?
私は世間に名を残したいと思い、只今奮闘しています。その中でも文章力を極めたく、毎日記事を書くようにしていますよ。さらに特訓として、お手本の書籍を書き写す写経を、毎日行っています。以前よりは文章力も上達していると、師匠に言われていますね。
私も掛布雅之のように試行錯誤しながら何でも取り組もうと、改めて実感させられました。
まとめ
掛布雅之は長嶋茂雄をリスペクトしていて、以下のように考えて試合に取り組んでいたようですよ。
長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。長嶋は掛布の結婚披露宴で「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。だが、君は千葉の後輩なんだ。悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」とスピーチし、掛布も「長嶋巨人を倒すことが長嶋が最も喜ぶことだ」と考えたという。
引用:Wikipedia
過去に長嶋茂雄について、書いた記事があります。お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。

やはり成功するには、目標となる人がいることも重要になるのでしょうね。
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