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金本知憲の名言!「不安があるからこそ…。」に隠された内容とは?

元プロ野球選手
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金本知憲かねもとともあきと言えば、アニキの愛称で親しまれています!もともとは広島の選手だったのですがFAで阪神に移籍し、優勝に貢献しました。素晴らしいことですね!
 
 
そんな金本知憲の名言には、どんなものがあるのでしょうか?また意味はどうなのでしょう?今回はその点を、ジックリ見ていきたいと思います。

 

 

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金本知憲の名言の意味とは?

 
金本知憲は鉄人として誇りに思われ、そして愛される偉大な人物です。今回は彼の励みになる名言を紹介します。その内容がこちらです。
 

不安があるからこそ、練習にも真剣に取り組めるんです。

 
この内容は、選手時代にコーチから問われた際に出た言葉になります。名言の意味がこちらです。
 

練習不足は不安を生み出します。そして不安や恐怖がある状態は、100%の実力を出すのは難しいのです。だからこそ練習は裏切ることがないから、不安を糧にして全力で取り組むのです。

 


 
 
私たちは不安や恐れをネガティブに捉えがち。でも金本知憲はそれがあるから練習を、全身全霊で取り組めると言っているのです
 
 
次の章では生い立ちなどを紹介します。
 

金本知憲とはどんな人?

 
金本知憲は1968年4月3日生まれの牡羊座で、出身地は広島県広島市南区青崎です。そこは原爆ドーム近くになり、お好み焼きや牡蠣でも有名な場所になります。


 
 
金本知憲は広島市立青崎小学校の4年生の時に、リトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めたのです。しかし練習についていけず、同時期に体育の授業で骨折したこともあり1年で退部しました。

そのあとは、町内会のソフトボール大会や広島市立大州中学校の軟式野球部に選手として参加。広陵高校、東北福祉大学を経て結果を出し、1991年にドラフト4位で広島東洋カープに入団します。
 
 
金本知憲は、輝かしい歴史だけの男ではありません。大きな怪我なども経験しています。

神宮でのヤクルト戦の試合前の守備練習中にチームメイトと接触し、右肩腱版を部分断裂する大ケガを負ったのです。その後、体力不足を痛感してジムに通います。そこから体を徹底的に鍛えて、12キロアップでの筋肉をつけました。

現役時の身長は188センチ、体重は88キロ。鍛え上げて、ホームランバッターにまでなったのです。
 
 
また金本知憲が他の選手と違うのは、精神を鍛えるために炎の護摩行をしたことですね。本人曰く、「プロ野球の世界は、技術や体力、精神力の勝負です。体力には自信があります。技術もまあまあの自信がある。問題は精神力ですね」と語っています。

炎の護摩行では気絶したり逃げ出す者が多いのですが、金本知憲は2時間以上も少しも動かずに真言を唱えていました。彼の修行を手伝った法主にも褒められるくらい、鉄人の通り名は伊達ではないようです。


 
 
そして金本知憲は試合や練習に全力で取り組む姿勢やチームの雰囲気を大事にする人柄から、アニキと親しまれて多くのファンに愛されています。
 

金本知憲の功績とは?

 
金本知憲の選手時代は、特別功労賞・打点王・MVPなど受賞しています。その他にも連続イニング出場数(13686イニング)、連続試合フルイニング出場数(1492試合)の世界記録保持者です。また通算で2,539本のヒットを打ち、名球会入りを果たしています。
 
 
当然スランプや苦い挫折がありました。でも金本知憲は自己変革で低迷期を乗り越え1995年から広島で不動のレギュラー入りし、プロ野球史上7人目のトリプルスリーを達成。遅咲きではありましたが、才能を開花させていきます。

その後2003年からは広島から阪神に移籍し、主軸として大活躍し、リーグ優勝に貢献。2012年の10月に2578試合で監督やチームメイトに惜しまれながら、現役を引退しました。
 
 
現在は野球解説、メディアへの出演、トークショーや講演などで活躍中です。
 

金本知憲が成功できた理由とは?

 
金本知憲がプロ野球選手として成功できた理由は、「不安があるからこそ、練習にも真剣に取り組めるんです。」という名言が関わってきます。

というのも広島に入団当時の金本知憲は体が細く、バッティング練習で内野の頭を越すのがやっとでした。そこで怪我をしたことがキッカケで素振りのほかに筋トレを取り入れ、あの鋼鉄の肉体を作り上げたのです。


 
 
そしてホームランバッターになりたい!と強い信念を持ち練習の虫となり、実現させました。このようなエピソードがあります。
 

入団後の2年間(1992年 – 1993年)は芽が出ず、年下の前田智徳や江藤智らに追い抜かれ、打撃は当時のコーチから「転がして足を活かせ」と言われるほど非力で、外野守備も送球を地面に向かって投げてしまう悪癖から「モグラ殺し」のあだ名を付けられるなど、本人曰く「クビを覚悟していた」という。それらの悔しさから筋力トレーニングを本格的に取り入れ、地道な身体作りを行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着していった。

引用:Wikipedia

 
その後、広島のクリーンアップを打つまで成長したのです。やはり名言にあるように、自分の道を信じて練習を続けたことが球界の代表選手となれたのではないでしょうか?
 
 
さらに2003年には阪神の星野監督から声をかけてもらい、移籍となります。過去に書いた記事があるので、お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。

星野仙一の名言!「夢は見るものではない…。」の隠れた内容とは?
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この時までの阪神は万年Bクラスで、負け癖が付いている状態でした。そこから金本知憲が加入し、チームを奮い立たせたのです。
 
 
当時を野球評論家の金村義明氏が、エピソードとして語っています。
 

金本は試合が終わってからでも黙々とバットを振り続けている。チームでいちばん結果を残している選手がそれだけの練習をするんですから、他の選手は先に帰ることはできない。それに試合でも自己犠牲をいとわないバッティングや全力疾走を貫き、プロ意識というのを見せつけた。それから選手たちの意識も変わってきて、毎年のように優勝争いをする強いタイガースに生まれ変わった。

引用:web Sportiva

 
ここで阪神のチーム意識改革にも貢献し、18年ぶりのリーグ優勝に導きました。まさに優勝請負人です。
 
 
さらには気配りの性格も人一倍あり、誰からも慕われていたようですよ。
 

仲間を信頼して献身的なチームバッティングをするプレースタイルをしつつも自分も結果を残し、「活躍できたのは裏方さんのおかげ」と試合の副賞でもらった賞金や賞品をスタッフにプレゼントし、私生活でも若手選手やチームの裏方や記者にまで食事会や送別会を開いたりする等細やかな気遣いを見せ、選手やスタッフや野球関係者だけではなく、ファンからも「アニキ」と呼ばれるようになり、他の選手とは一線を画する存在となった。

引用:Wikipedia

 
細かな心配りが、結果的にリスペクトされる。そして何回も言いますが金本知憲は不安があったけど自分を信じて練習にも真剣に取り組んだことで、成功へと繋がったのではないでしょうか?
 
 
ちなみに私は文を書くスペシャリストになるのが、目標になっています。そのためには金本知憲のように、自分を信じて毎日の写経を続けて文章力を高め、前に進むしかないと思っているのです。

≪写経とは?≫
手本となる文章を書き写すこと。

 
継続することが大事。自分自身を信じて、前へ進みましょう!
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
金本知憲は引退会見で「もっと練習していれば」と言い、よく知る関係者を驚かせています。だって彼ほど練習している選手は、いないからなんです。同業者にリスペクトされるような存在を目指し、頑張っていきましょう。
 
 
 

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