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川藤幸三の名言!「後輩の機嫌をとるのではなく…」に隠された内容は?

元プロ野球選手
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川藤幸三かわとうこうぞうは、阪神タイガースのゲーム解説者で知られています。もともとは選手として、チームを引っ張っていたのですがね。阪神タイガースとしては、とても偉大な存在です。
 
 
そんな川藤幸三の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた意味はあるのでしょうか?今回はそのあたりを、見ていきたいと思います。

 

 

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川藤幸三の名言の意味とは?

 
川藤幸三は、元阪神タイガーズの代打男。破天荒な野球人生から、浪波の春団治と言われた人物です。


 
 
現役時代は記録より、記憶に残る個性派の男として有名でした。
 
 
そんな川藤幸三の名言がこちらです。
 

後輩の機嫌をとるのではなく、きちっと物言えることが先輩の愛情だ。

 
川藤幸三らしい言葉ですね。自分に厳しい男なのでしょう。
 
 
意味がこちらになります。
 

後輩に良き先輩と思われるために、お世辞を言ったり可愛がったりするのが最善な方法。しかし先輩として重要なのは、悪いことは悪い!と指摘してあげることが、本当の愛情と言えることなのだ。

 
人間誰しもは機嫌ばかりとるごますりな人に、仕事でもプライベートでもついていきません。嫌われても本当に思って指摘してあげるその厳しさが、真の優しさではないでしょうか。
 
 
この名言について、川藤幸三はこう語っています。
 

「ワシがいつも思うとることは先輩とはなんや、ってことですよ。後輩にいい顔するのが先輩か? ちゃうぞ、と。先輩に理不尽なことやられたって当たり前やないか。悔しければ、その上行く力つけんかいっちゅうことや。そうして自分がその立場に登ったときに、オレはこういう経験したから、後輩にはもう嫌な思いさせたくない、と誰しもこんな言葉ばかりや。でもワシはちゃう。ワシらはやられたお陰でその先輩を超えることができたんや。だったらワシは『この後輩、かわいいなあ。こいつは絶対、ワシら以上になるヤツや』と思ったら、徹底的に叩かないかんと思うとる。例えば巨人で言えば長嶋さん(長嶋茂雄、読売巨人軍終身名誉監督)が松井(秀喜、元ニューヨーク・ヤンキース)に色んなことを厳しく教えた。ああいうのが先輩の姿や」

引用:Number

 
本当に愛情ある後輩への接し方というのは、このようなことを言うのでしょうね。
 

川藤幸三とはどんな人?

 
川藤幸三は1949年の7月5日生まれで、福井県美浜町の出身です。


 
 
野球を始めたきっかけは、これまた優しい理由から。というのも同郷の山口良治(元ラグビー日本代表)が帰省中に出身中学の野球部人数が少ないことを知って募集し、その際に勧誘されて入部が決まったのです。

高校は隣の市にある若狭高校に入り、エースとして活躍します。1966年秋季北信越大会では決勝に進みましたが、残念ながら準優勝。しかし翌1967年は、春夏の甲子園に連続出場を果たしたのです。その結果、1967年のドラフト9位で阪神タイガースに入団しました。
 
 
現役時代の身長は174センチ、体重は76キロです。細マッチョで凛々しい男でした。
 

川藤幸三の功績とは?

 
川藤幸三の阪神タイガース入団当初は、内野手登録でしたが後に外野手に転向します。鈍足のイメージが強いですが俊足や強肩で鳴らし、1969年にはウエスタン・リーグ最多盗塁を記録。その後は1974年までは一軍で代走や守備固めを務めていたのです。

しかしアキレス腱を断裂する大怪我を負ってしまい、足に負担がかからない代打専門として自分の役割を絞って開花します。後にチームのムード作りをまっとうしました。阪神一筋18年間での通算ヒット数は211本ですが、人望としての功績を残しました。
 
 
引退後は日本テレビや読売テレビで、野球評論家や阪神コーチなどを務めています。


 
 
ファンから愛されている話として、現役時代のことです。

チームがチャンスになると、「川藤を出せ~」とヤジが飛びました。でも川藤幸三が代打に出ると、「アホか~、ホンマに出すな~」という、イジリのようなツッコミが飛んだというから驚き。

関西のファンにとっても愛されていたのは、十二分に功績を残した証拠ではないでしょうか。記録ではなく、記憶に残る男の異名は伊達じゃないですね。
 

川藤幸三が成功した理由とは?

 
川藤幸三はこれまでいろいろお伝えしたように、野球でスゴイ記録を残してきたわけではありません。それなのに現在は解説者や野球評論家として、メディアで引っ張りだこなのです。成功したと言っても過言ではありません。


 
 
ではなぜここまで、人気が出ることになったの?と疑問を持つ方もいるでしょう。

それはやはり、「後輩の機嫌をとるのではなく、きちっと物言えることが先輩の愛情だ。」の名言が大きくかかわってくると思います。
 
 
というのも現役時から川藤幸三という存在は阪神タイガースのチーム内ですでに、首脳陣と選手をつなげる重要な役目を確立させていたのです。後輩に嫌味なくスパッと言える人柄が、大きく関係したのでしょうね。

1985年のセリーグ優勝と日本シリーズ制覇時には、エピソードとして残っています。
 

1985年のセ・リーグ優勝・日本シリーズ制覇時には、首脳陣と選手とのパイプ役として欠かせない存在だった。特にランディ・バースに対しては、将棋を教えながらほとんど日本語だらけの英語でコミュニケーションを取り、決してチームから孤立させなかった。

引用:Wikipedia

 
首脳陣と選手だけではなく、後輩でもある日本人選手と外人選手をもつなげているという。こういう粋な計らいが、結果としてチームの結束力を強めてくれるのです。

実際に今でも解説者で関わるときは阪神の若手選手のことを、ポジティブに発言してくれています。その行為に対して藪恵壹は、阪神タイガースのセラピー・コーチと呼んでいたと語っていますからね。セラピーの本来の意味は、治療や療法を言います。

そう考えると後輩選手たちにこのように言われていたことは、絶大な信頼を得ていたのではないでしょうか?
 
 
さらに驚くのが、阪神のチームに対する愛が人一倍強いことです。実を言うと1982年の32歳くらいから成績が落ち、戦力外通告を受けています。

しかし、「給与ゼロでもいいから野球を続けさせてほしい!」とフロントに懇願して残留が出来たのです。阪神球団はそれを受け入れ、年俸60%ダウン(推定)の一軍最低保障年俸で契約更改しました。
 
 
この時のエピソードがまた泣けてくるのです。内容がこちらになります。
 

1983年当時の一軍最低保障年俸で阪神と再契約したが、この話に感動した阪神ファンの上岡龍太郎、2代目桂春蝶、中村鋭一らが「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めた金銭(1安打につき賛同者から1万円徴収しプールしたという)をシーズンオフに、「これを給料の足しにしてほしい」と持参したところ、川藤は「上岡さんたちの気持ちはありがたいけど、そんなことは出来ない。このお金は自分のためではなく、ファンのために使わせていただきます」と言って、阪神甲子園球場の年間予約席を購入した。川藤はこの席に毎試合、身体障害者を招待し、席はファンから「川藤ボックス」と呼ばれるようになった。

引用:Wikipedia

 
体の不自由な人のために、観覧席を無料で設ける。まさに男の中の男ではないでしょうか?自分自身が窮地に立たされてもファンのためにお金を使うのは、なかなかできることじゃありません。

以上のことから考えると、川藤幸三は後輩の選手たちに嫌味なく言えて信頼された人柄。さらに阪神ファンやその他大勢に対してのふるまいが愛され、成功に繋がったのではないでしょうか?
 
 
私も世間に名を残そうと、いろいろな人と交流をしています。

その中で心がけているのは、年下などを小間使いにせず自分自身がまず動いてみる。そして実際に経験をし、それを踏まえたうえで伝えるようにしているのです。また嫌がられているかもしれませんが、間違っていることは伝えるようにしていますね。

川藤幸三のようにうまくいかないでしょうが、愛されるキャラになれるよう改めて努力しようと思いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
川藤幸三の喋っているのを聞いていると面白いだけでなく、なぜか引き込まれる要素があります。あれって妙な策略もなく素直に見たまんまを言っているだけなんでしょうが、すごい天性の業だと思いますね。私も極めたいです。
 
 
 

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