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木田優夫の名言!「『ライバルは誰ですか』って…」に隠れた内容は?

元プロ野球選手

 
 
木田優夫きだまさおは、速球でグイグイ押すタイプの元ピッチャーです!巨人にいるとき、三振を取るのを期待して見ていましたよ。
 
 
木田優夫の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 

木田優夫の名言の意味とは?

 
木田優夫は日本球界とメジャー球団を渡り歩いた、ユーモアたっぷりある元プロ野球選手。デトロイトタイガースの入団会見では、羽織袴姿で登場したのが印象的です。


 
 
そんな有名人の名言がこちらになります。
 

「ライバルは誰ですか」って聞かれるんですけど、常に「ダルビッシュ」って答えますよ。

 
この内容は、日ハムに在籍した際にインタビューで出た言葉です。ダルビッシュは木田優夫より年齢も若く、18歳も違う歳の差。
 
 
意味がこちらです。
 

競争相手を聞かれると、私は常に同じチームのダルビッシュと答えます。同じチームの投手の中でも群を抜いて優れているからでもありますが、リスペクトすることで謙虚にもなれるのです。

 
最初に名言を聞くと、ユーモアなのか本気なのかはわかりません。だって同じチームの後輩を、ライバルにあげるのは珍しいことです。

木田優夫は「40歳を過ぎて150キロ」の速球で、低めにビシビシ投げるのが目標でした。そこで投手としても名高いダルビッシュを尊敬し、年齢を重ねても体にムチを打って練習に励んでいたのです。近くにいる存在であれば、リアリティーがありますからね。

このように同じチームの選手をリスペクトすることで、木田優夫自身の謙虚さをも生み出すことになるのです。名言には、このような内容が隠れていました。
 

木田優夫とはどんな人?


 
木田優夫は1968年の9月12日生まれで、東京都国分寺市の出身地です。亡くなられた忌野清志郎氏が、同郷の有名人のようですよ。
 
 
木田優夫は父親が高校球児だったこともあり、地元の少年野球チーム「スネークス」に小学校3年から入って野球を始めました。その後、転勤が重なり、2年間を北海道の札幌市で過ごしたのです。

転校の条件としては、札幌でも少年野球チームに入れること。そのため、「北大バンサーズ」というチームに入りました。

国分寺五中在学時は野球部が無かったので、国立シニアリーグに入ったのです。その後関東代表として台湾に遠征し、他国の人と交流する楽しさを知りました。
 
 
高校は電車とバスを乗り継いで、山梨県の日本大学明誠高校に進学。1986年の山梨大会ではエースで四番打者として春夏決勝まで勝ち進みましたが、久慈照嘉が率いる東海大甲府に敗れたのです。残念ながら甲子園の道は阻まれました。


 
 
それでも1986年度のプロ野球ドラフト会議で右の本格派としてスカウトから注目を集め、読売ジャイアンツから一位指名を受けて入団。現役時の身長が188センチ・95キロ。大型でガッシリした体格でしたよ。
 

木田優夫の功績とは?

 
木田優夫は、巨人に9年⇒オリックスに1年⇒デトロイトタイガースに1年半⇒オリックスに1年半⇒シアトルマリナーズに1年半⇒ヤクルトに4年⇒日ハムに3年と、長くに渡って球団を渡り歩きました。

タイトルは最多奪三振を取得。プロ野球通算で74勝のため、名球会入りを果たせていません。ただ賞状は、月間MVP、東京ドームMVPなどを獲得しました


 
 
ここまででも十分功績を残しています。さらに引退後の2015年からは、日本ハムのゼネラルマネージャー補佐に就任。ドラフト会議で1巡目指名で7球団が競合した清宮幸太郎を引き当て、話題になりました。

2019年シーズンからは、日本ハムファイターズの一軍のチーフコーチを務めています。今後にも期待が持てる人物ですね。
 

木田優夫が野球で成功できた理由とは?

 
木田優夫は日本球界で19年・メジャーで5年を、野球人生に捧げました。ここまで長く現役で働けたことが、素晴らしいです。


 
 
と同時に、成功できた理由が知りたくなります。

どうして勝ち組の1人になれたのでしょう?

やはり、「『ライバルは誰ですか』って聞かれるんですけど、常に「ダルビッシュ」って答えますよ。」の名言が、大きくかかわってきます。
 
 
というのもこの名言からわかるように木田優夫には、近くの人や関わる人を持ち上げてリスペクトする謙虚さがあるのです。巨人時代の長嶋監督とは、このようなエピソードがあります。
 

なかでも木田を最もうまく使っていたのが長嶋茂雄監督。チーム事情に合わせて谷間の先発、ブルペンにと木田をフル回転。この頃の木田は長嶋監督からも「便利屋」として称されるほど、投手のユーティリティープレーヤーともいうべき活躍を見せます。

引用:VICTORY

 
監督にとってどんな器用方法でも使えるピッチャーは、本当にありがたい存在。木田優夫自身が長嶋茂雄を人として監督としてもリスペクトしてたため、期待に応えられたのでしょうね。
 
 
さらにメジャーに挑戦後、行き場のなかった木田優夫に声をかけたのが監督に就任した古田敦也。ここでもヤクルトに入団し、活躍することができました。
 

05年オフ、ふたたび行き場のなくなった木田優夫。これで引退かとも思われましたが、そんな木田に声をかけたのが、翌06年からヤクルトスワローズの監督に就任する古田敦也。行き場のなくなった木田はこの誘いを意気に感じたか、翌06年、木田は中継ぎで56試合に登板し、リーグ4位となる23ホールドを記録するなど大活躍。監督推薦という形ではありますが、自身2回目となるオールスターゲーム出場。初出場が16年前の90年だったため、15年間のブランクは歴代最長記録となりました。

引用:VICTORY

 
まさに、捨てる神あれば拾う神ありです。

その後はBCリーグの石川ミリオンスターズに移り、主にクローザーとして活躍して2014年プロ野球生活にピリオドを打ちました。この間にも芸人の明石家さんまと交流があり、いろいろ関わってもらっていますよ。
 

タレントの明石家さんまと親交があり、さんまが司会を務めるテレビ番組に木田自身も出演することがある。明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーには巨人時代の1996年からトナカイの着ぐるみを着て毎年出演するとともに、自身の関連景品を提供している。2000年にオリックス・ブルーウェーブに復帰した際には、『明石家マンション物語』内の『ダメダメボーイズ』コーナーの決め台詞と合わせた「DAKYXX(ダーキー・ダメダメ)」グッズが発売された。なお、最初のオリックス移籍当時(1998年)、オリックス戦のテレビ放送が少ないこともあってか「オリックスの木田」としての知名度は高くなく、さんまの番組に頻繁に出ていたことから「飲み屋で若い子に吉本の芸人に間違われることがあった」という。なおこの縁でさんまは2014年に石川ミリオンスターズ後援会に加入している。

引用:Wikipedia

 
明石家さんま自体をリスペクトした結果、いろいろな恩恵をもたらすことになったのでしょうね。計算されていない感が凄いです。
 
 
このように考えると木田優夫は、偉大な近い人をリスペクトしたこと何事も謙虚な気持ちで行ったことが、成功できた理由ではないでしょうか。
 
 
私は世間に名を残したいと思い、いろいろ頑張っています。中でも人と接するコミュニコーション時は、謙虚な気持ちで何事も接していますよ。どうしても天狗になってしまうと、好まれませんからね。重要なことなんです。

私も木田優夫のように謙虚さを心掛けて常に人に接しようと、心に誓いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
木田優夫はイラストを書くことが得意で、このように言われていますよ。
 

イラストレーションが得意で「木田画伯」と呼ばれる程の腕前を持つ。テレビ出演時には度々披露するほか、各プロ野球選手のイラストを描いた選手名鑑『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』を刊行している。

引用:Wikipedia

 
こういう風に趣味の域を広げていけば、さらに活躍の場が広がっていくのでしょうね。これは頑張らないといけません。
 
 
 

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