松井稼頭央は走攻守で活躍したプロ野球選手!メジャーリーグでも頑張っていましたよ。
そんな松井稼頭央の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた意味はあるのでしょうか?今回は、それらを見ていきたいと思います。
松井稼頭央の名言の意味とは?
松井稼頭央は西武・楽天、メジャーリーグではメッツ・ロッキーズ・アストロズと渡り歩いたプレイヤーです。超一流の選手には、どんな名言があるのでしょう?
その内容がこちらです。
これは雑誌の取材で聞かれたときに出た言葉。
意味がこちらになります。
嫌なことがあれ、誰でも落ち込みます。それは自分一人でもですし、チームとってもそうです。
明るく努めているのは簡単ではないと思います。でも松井稼頭央は、元気でいることの大切さを説いているのです。
ネガティブな考えは、悪い結果を引き寄せると言われています。逆に、ポジティブな考えは良い結果を生み出すのです。それは個人にとってもそうですし、チームにとっても同じこと。
辛い状況の時は、前を見なければ見えなくなってしまう恐れがあります。だからしんどい時ほど、元気を出すことが大事なのです。松井稼頭央のように、どんな時でも元気でいるタフな心を持っていたいですね。
松井稼頭央とはどんな人?
松井稼頭央は1975年の10月23日生まれで、大阪府東大阪市の出身地です。幼少期からから野球漬けの毎日でした。
小学三年生の時には、近所の上級生に誘われて若江ジャイアンツに入団。でもチームが所属していた地区は強豪ぞろいで、小学生時代は全国大会に出場できませんでした。中学時代は決勝戦で負けて、ここでも叶わなかったのです。
悔しい経験から「高校に入ったら絶対に甲子園に行ってやる!」と深く心に誓っていたようですね。その甲斐があり高校はPL学園に進学し、1年生の時に春の選抜に出場したのです。しかし2年生・3年生は怪我の影響があり、甲子園出場を逃してしまいました。
だけどプロのスカウトは、シッカリと原石を見ているモノです。1993年のドラフト会議で、西武ライオンズが3位指名してくれ入団します。
現役時の身長は177センチ、体重は85キロ。小柄でしたが、30本塁打以上を2年も記録しているのが驚きです。
松井稼頭央の功績とは
松井稼頭央は西武で9年プレーした後、2003年にメジャーリーグのニューヨーク・メッツと契約しました。メッツで活躍した後にはコロラド・ロッキーズと契約し、その後ヒューストン・アストロズと渡ったのです。
2010年には日本に帰ってきて東北楽天ゴールデンイーグルスに入団し、2017年には西武ライオンズに復帰します。
その間に取ったタイトルは、盗塁王3回に最多安打2回。表彰は、最優秀選手・ベストナイン・ゴールデングラブ賞などを受賞しました。プロ通算で2,705本のヒットを積み重ね、堂々と名球会入りを果たしていますよ。
さらに2018年に引退し、2019年のシーズンから西部ライオンズの二軍監督に就任しています。ここまでも功績を、十分すぎるほど残しているのです。
松井稼頭央の特徴は、全身バネとも言われている高い身体能力を持っています。プレーの美しさや、パフォーマンスの高さでファンを魅了しました。
楽天の監督だった星野仙一は、このように言っていますよ。
星野仙一は「稼頭央の一番すごい部分は、身体能力が並外れて高いところ。過去の選手と比べてもその能力はナンバーワンだね。」と称賛している。
引用:Wikipedia
過去に星野仙一について書いた記事があります。お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。

松井稼頭央は俊足・巧打・長打・強肩・攻守という、いわゆる5ツールプレイヤーとしても評価されていました。後輩の目標ともなる存在で、大きな功績を残してきたのではないでしょうか?
松井稼頭央が野球で成功した理由とは?
松井稼頭央は日本のプロ野球界17年、メジャーリーグで7年間プレーしました。42歳まで現役で頑張ったのですが、野球で成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?やはり、「しんどい時ほど元気を出しました。チームの勝敗には波がある。連敗すれば、どうしても暗くなりがち。でも、そこで落ち込んでいても仕方ないじゃないですか」という前向きに考える名言が関わってくるのです。
というのも松井稼頭央はプロに入る前はピッチャーをやっていて、野手は素人同然でした。それを練習で補おうとポジティブに考え、西部入団当時に打撃コーチを務めていた谷沢健一からスイッチヒッターの提案を受け開花したのです。
また名前を改名し、気持ちをも高めいています。中央で先頭に立って活躍。何とも素晴らしい考え方ですね。実際に改名以来、活躍を続けているのです。
その後は松井の努力により、左打者の打ち方をみるみるうちに吸収していった。また同年開幕前に登録名を本名の「松井和夫」から「松井稼頭央」に変更している。
1995年に本名から変更した登録名の『稼頭央』には「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味が込められている。
引用:Wikipedia
ただポジティブ思考なだけではなく、練習に対してストイックなんです。というのも松井稼頭央は練習の虫とも言われるほど、自分を追い込んでいました。
過去にインタビューされた際には、このように答えていますよ。
「自主トレは、妥協しようと思えば、いくらでもできるじゃないですか。1からすべて自分で考えて取り組まなければいけないので、自主トレでいかに自分と戦えるかが大事だと考えています。それが毎年、憂鬱なんです、ハハ。遊ぼうと思えばいくらでも遊べるし、休もうと思えば、いくらでも休める。同じように“練習をやろう”と思えば、いくらでも練習できる。そこが自分との闘いなんでしょうね。でも、これだけ長い間、プロとしてプレーできているのは、こうやって毎年、準備をしているからだと思います」
引用:Number Web
やはり厳しいトレーニングをすることが、長く野球をできた証拠なのでしょうね。実際に西武時代に1・2番コンビを組んだ評論家の大友進氏は、以下のように言っています。
「とにかく稼頭央は練習の鬼でしたね。試合前に打撃、守備、走塁の技術練習をする。で、試合に出る。普通はそこでクールダウンして終わるんですけど、稼頭央はそこからが本番だった。試合が終わってユニホームのままトレーニングルームに入って筋トレ開始。誰より早く球場に来て、帰るのは一番最後。一体いつまで練習するんだっていうぐらい練習してましたね」しかし、本人にとってすでに本拠地での日課となっていたそのルーティン。「稼頭央はそれを楽しそうに、当たり前のようにやっていた。本当にストイックで試合で打っても打たなくても気持ちの切り替えがうまい選手だった」と当時を振り返る。
引用:エキサイトニュース
このように徹底的に練習し、プロで活躍できる身体を作り上げていたのでしょうね。
以上のことから松井稼頭央は、ポジティブに自分自身を追い込んで野球の練習をしたこと。そして継続して続けたことが野球で成功した理由なのではないでしょうか。
私は文章のスペシャリストになりたいと、毎日記事を書くようにしています。その中でも特に良いと思うのが、お手本となる書籍を書き写す写経を毎日欠かさず行っているのです。
まずはこの継続ということが、成功へと近づけてくれるのではないでしょうか?私も松井稼頭央を見習い、この先も頑張ろうと誓いました。
まとめ
松井稼頭央はインタビューで、子どものころから負けず嫌いだったと言っていますよ。
僕はなにしろ負けたくないものだから、家で必死にトレーニングしましたよ。腕相撲といっても腕だけを鍛えればいいわけじゃなく、腹筋とか背筋も必要でしょう。そうやって鍛えたら強くなったので、今度はトレーニング自体がますますおもしろくなってくる。だからいまでも、好きですね。
引用:ヤフーニュース
負けず嫌いから頑張り、成果が出て面白くなり繰り返という相乗効果を生んでいます。何はともあれ、継続は力なりですね。
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