小久保裕紀は、ダイエーで活躍した右の強打者です!巨人に移籍しても長距離砲として君臨するのが、これまたすごいですね。
そんな小久保裕紀の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた意味はあるのでしょうか?今回はその辺を中心に、見ていきたいと思います。
小久保裕紀の名言の意味とは?
小久保裕紀は、侍ジャパンの監督を務めた有名人です。そんな人物の名言は、どのようなものがあるのでしょう?
その言葉が、こちらになります。
これは2015年に侍ジャパンの監督としてインタビューされた際に、出た言葉です。
意味がこちらになります。
どのような世界にいる人でも、トップの人たちは周りから注目を集めてしまいます。それなのにもし、不真面目だったら?態度が悪かったら?このような人物には、誰もついてこないと思いますね。
しかし、誰よりも誠実にひたむきに取り組んでいたら?誰に対しても接し方を大事にしていたら?きっと周りは、「だからあの人は結果を残しているんだなぁ。」と思われるはずです。
これは私たちの、日常でも言えることではないでしょうか?
たとえば会社や学校で、先輩が後輩にとってお手本になっている状態です。これがサボりぐせがあったり不真面目な対応を取っていれば、そのような人物となってしまいます。いずれ後輩を持つことになった際は、同じような態度をとってしまうと思うのです。
小久保裕紀は先を見据えて、トップ選手たるものがお手本であり、鏡である意識が大切だと言っているのでしょうね。
小久保裕紀とはどんな人?
小久保裕紀は1971年の10月8日生まれで、和歌山県和歌山市の出身。幼少期は野球ではなく、柔道をやっていました。
しかし母の勧めで小一から野球を始め、小二ですでにプロを目指していたのです。ちなみに、和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校に進学。高校は和歌山県立星林高等学校に行って野球部に入りましたが、残念ながら甲子園出場は叶いませんでした。
その後、青山学院大学に入り、東都大学野球リーグで通算40試合出場。1993年には主将になり、チームを引っ張ります。そして青山学院大学で史上初の大学野球日本一に、貢献したのです。
大学に在学中は1992年バルセロナオリンピック野球日本代表に、学生でただ一人が選出されました。予選リーグで2本塁打を放つ活躍を見せ、侍ジャパンの銅メダルに貢献したのです。
その活躍が脚光を浴びて1993年に福岡ダイエーホークスを逆指名し、ドラフト会議で2位指名されて入団します。
現役時代の身長は182センチ・体重87キロ。ガッシリした体格で、完全なるマッチョですね。
小久保裕紀の功績とは?
小久保裕紀はダイエー・巨人・ソフトバンクという風に、球団を渡り歩きました。
獲得したタイトルは、ダイエー時代に本塁打王と打点王があります。表彰に関しては、オープン戦最優秀新人賞・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・スーパースラッガー賞・月間MVPなどです。プロ通算で2,041本のヒットを打ち、名球会入りを果たしています。
ここまででも十分に、功績を残してきました。さらに野球を引退後は、野球解説者・評論家・日本代表監督をしています。
小久保裕紀は学生時代から、チームを引っ張ってきた存在でした。その際には士気を上げるために強気な発言をすることも多かったようで、青山学院大学の練習方法を変えた選手でもあります。
また、社会にも野球で恩返ししているのです。
地元への恩返しに、2005年オフから和歌山市民球場で軟式少年野球大会を行い、トーナメントで優勝を決める、いわゆる「小久保裕紀杯」を開催している。表彰式でメダルを渡すのはもちろん、試合前ノックや、始球式にも打者として出るなどサービスも行っている。
地域にも貢献しているのは、野球で功績を残してきた証拠ではないでしょうか。素晴らしい人物ですね。
小久保裕紀が野球で成功した理由とは?
小久保裕紀はプロ野球人生が18年と、40歳まで頑張りました。多くの選手が30代で現役を去るのに大台に乗るまで契約更改できたのは、野球で成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?疑問になる方もいるでしょう。
やはり「トップの選手たちは常にお手本であり、鏡であるという意識が大切です。」という名言が、大きくかかわってくるのです。
というのも小久保裕紀はいつでもお手本になる意識を忘れずに、行動していました。エピソードがこちらです。
キャンプの全体ランニングでは常にトップを走る。ダイエー新人時代から「選手の中で一番早く球場入りして、試合後一番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心である。入団時から守備・走塁コーチであった定岡智秋は「小久保には厳しい練習に耐えられる体の強さがあり、努力を継続させる強い意志も持っていた。だからこそ、球界を代表する選手に成長できた」と語っている。
引用:Wikipedia
その結果、チームメイトや後輩からもリスペクトされる存在になっていたのです。
後輩である松中信彦、斉藤和巳などの信奉する選手も多く、同期であり、元ダイエー、現高校野球監督の大越基は生徒に模範すべき選手と語っている。自身は成績の上下に関わらず4番打者として長らく起用してもらった王監督に絶対の信頼を置く。松中、城島健司とは、師弟・ライバルと呼べる関係である。城島は小久保が2000安打達成の際、「ホークスの新たな伝統を築いた若手の中心が間違いなく小久保さんだった。野球を愛され、真剣に向き合ったからこその偉大な数字。僕らの誇りです」と述べた。
引用:Wikipedia
自ら率先して動くようになったのは、若いときから主将を任せられていたのが影響しているのでしょうね。このようなエピソードもあります。
学生時代からチームを引っ張っており、小、中、大学と主将であった(高校時代は投手だったため副主将)。ルーツは中学生時代である。野球は団体競技であり、全体の責任はキャプテンにあると徹底的に叩き込まれたため、チームとしてどう動くべきかという全体を見る目を自然と持てるようになったという。怒られることは自身のプレーではなく、チームとしてであった。プロでも、巨人で2006年に外様初の主将となり、古巣復帰後も2009年に主将就任。前年最下位だったチームは3位となり、2010年にはリーグ優勝。2011年にはパリーグ連覇、CS制覇、日本一を果たす。秋山監督にも信頼され「自分が監督を務めている間は主将は絶対に変えない」と言われていて2012年の引退年までチームをAクラスに導いた。
引用:Wikipedia
主将として長くけん引したことが、素晴らしい人格者に繋がったのでしょう。
以上のことから考えると小久保裕紀が野球で成功した理由は、常にお手本であるという意識を持ったこと。そして自ら率先し手を抜かずに行動したことで強靭な体を作り上げ、結果が付いてきたのではないでしょうか?
私は世間に名を残したいと思い、いろいろと動き続けています。そのため名に恥じないように意識し、行動を心がけているのです。また文章は手を抜かず、真剣に書くようにしていますよ。
私は小久保裕紀をお手本にし、他人からリスペクトされるような人物になれるよう努力を続けようと思いました。
まとめ
小久保裕紀は野球ができるだけではなく、頭の回転も良かったのです。
学生時代は文武両道で、授業中寝たことも宿題を忘れたこともなく、常に成績はクラスで5番以内だったという。青山学院大学時代も3年時で単位を取得。4年生では野球に完全集中できるほどだった。野球教室でも野球だけではなく、勉強もするように勧める。
引用:Wikipedia
秀でる人は、どの場面でも手を抜かないのでしょうね。ある意味、納得しました。
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