桑田真澄は高校時代から有名だった元プロ野球選手!40歳近くでメジャーリーガーになった実績もありますよ。
そんな桑田真澄の名言には、どのようなものがあるのでしょう?また隠れた意味はないのでしょうか?今回はその辺を中心に、見ていきたいと思います。
桑田真澄の名言の意味とは?
桑田真澄といえば、最近イケメン息子のMatt(マット)がバラエティ番組で活躍しています。若い人であれば今回の主役である当本人を、息子から知る人も多いのではないでしょうか?そんなイケメン息子を持つ桑田真澄の名言を紹介しますね。
その内容がこちらです。
勇気づけられる名言。これは引退後に、出版社の記者から取材された際に出た言葉になります。
意味がこちらです。
以上のような解釈になります。
人は失敗するとショックすぎてごまかしたり、ミスを隠したりすることもあるでしょう。
残念な結果は恥ずかしいことではなく、そこで奮起して頑張ることで成功に結び付くのです。だから1つ1つ挑戦して学びましょう。このように桑田真澄は、誰だって大きな可能性を抱いて生まれてきたことを伝えたかったのです。
桑田真澄とはどんな人?
桑田真澄は1968年4月1日生まれで、大阪府八尾市出身。この地域は八尾若ごぼうや枝豆、紅たでなどで有名なところです。
幼少期は、町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」に入って、ソフトボールを始めました。その後、小学3年の時からはボーイズリーグの八尾フレンドに加入。6年生主体のチームなのに、ショートのレギュラーポジションを獲得します。
この当時は父親から工夫を凝らした練習や特訓をし、メキメキ上達して小学5年の終わりから戦力投手として活躍したのです。
中学校は八尾市立大正中学校に入学し、野球部に入部。1年生ながら、外野手兼ファーストのレギュラーポジションを獲得しました。3年生の時には、出場した春の中河内地区大会・大阪府大会・八尾市大会・第33回大阪中学校大会のすべてを制覇したのです。
高校はPL学園に入学して同期の清原和博とはこの時期に知り合い、KKコンビで高校野球を盛り上げました。
その後1985年にプロ野球ドラフト会議で、巨人から1位指名を受けて入団。王監督や藤田監督、長嶋監督などの指導のもと投手として活躍します。
過去に王貞治と長島茂雄について書いた記事があるので、お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。


身長は174センチ、体重は80キロ。ピッチャーとしては小柄なため、恵まれた体格ではありません。しかし巧みな投球術で、輝かしい成績を残したのです。
桑田真澄の功績とは?
桑田真澄の功績は凄く、高校時代からインパクトを残しています。というのも高校野球激戦区の大阪から、甲子園に出場可能な5回の大会に全て出場。そのうち4度も決勝に進出し、1年夏と3年夏の2回優勝という高校生離れした記録を打ち立てます。
さらにプロへ入ってからは、最優秀選手、沢村賞、最優秀投手、ヤナセ・ジャイアンツMVP賞を受賞。その後メジャーリーグに挑戦し、パイレーツで39歳70日でのメジャーデビュー達成です。通算成績は173勝で、残念ながら名球会入りを果たせていません。それでも立派な成績です。
今現在は、野球解説者やタレントとして活動していますよ。
桑田真澄はどんな人物か聞かれれば、一緒に戦った同僚たちからプロとしてのありかたについて、最大の評価を得ているのです。それは試合中のプレーだけではなく、試合前の準備や練習への取り組み。さらに日々の日常生活に至るまで、落合博満をはじめとする球界関係者も絶賛していますよ。
過去に落合博満について書いた記事があるので、お時間がある際にお読みください。

現場を指揮する首脳陣からの評価も高かったのです。
仕事からプライベートまで上司や先輩に認めてもらえるなんて、まさに神と言ってもいいでしょうね。
桑田真澄が成功した理由とは?
桑田真澄はプロ野球選手として、成功したと言っても過言ではありません。やはり名言にある、イチローも4割・5割の打率は記録できない。6割以上は失敗する。人生も同じで、失敗しても構わない。大事なのは、失敗してもそこから起き上がること。これが大きくかかわっているのです。
この言葉にあるように自分を信じて一歩一歩を着実に進んだことが、成功へと結びついたのでしょうね。
というのも、桑田真澄はPL学園に入った1年時に挫折しています。そのエピソードがこちらです。
実は高校1年生で完全に挫折しました。自分はちっぽけな世界で一番になっただけで、全国にはもっとすごい人間がたくさんいるということを実感させられたのです。同級生も先輩もすごいんです。体力面でも技術面でも圧倒されました。自分は体も小さいし、やっていくのは無理だと思って、100%辞めるつもりになっていました。その想いは、母親にも打ち明けました。そうしたらまた母親に言われたのです。「せっかく目標にしていたPL学園に入学できたんだから、最後まであきらめちゃダメ。体が小さくても成功できる方法はきっとあるはず」と。その言葉を、なぜかスッと受け入れられたんです。「他人と同じ方法を採る必要はない。自分らしくやればいい」ということに気付いたんですよね。
引用:採用マイスター
その後、桑田真澄は自分なりに野球を徹底的に研究し、独自の練習や過去の投球フォームに戻したのです。結果、コーチに見込まれて登板後に好成績を残し、エースに定着しました。
さらに自分なりの考えを監督に提案して有言実行することで、チームをも変革させたのです。このようなエピソードもあります。
「甲子園で優勝した後、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験。その時に中村監督と話す機会が増えて、そこで、『甲子園であと4回優勝するためには、長時間練習より短時間集中の方がいいと思う』と怒られるのを覚悟して言ってみると、意外にも中村監督は『やってみよう』と。その代わり甲子園に出られなかったら、元の練習法に戻すという条件付きで承諾。でも、約束通りすべて甲子園に出場した。だから、その時以来、3時間以上練習したことはない。当時の目標は甲子園出場、大事なのは技術力を高めることで、長時間練習は意味がないと認めてもらいました」と日本球界屈指の理論派で頭脳派投手は、高校球児の頃から一貫していた。
引用:FNN PRIME
考えに考え抜いて出した結論が、甲子園優勝のため3時間以上の練習はしなかったという驚きの内容。実際に桑田真澄の高校時代は投手生命を伸ばす先を見越した意味で、ストレートとカーブのみで3年間過ごしたのです。将来を見据えて実行するのがすごいと思いませんか?
また選手を引退後は野球に恩返しをしようと、早稲田大学院に進学して野球道を極めます。そこで過去での中学やPL学院時の不甲斐ない気持ちを思い出し、このようにも言っているのです。
体罰について「私は、体罰は必要ないと考えています。“絶対に仕返しをされない”という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツとして最も恥ずかしき卑怯な行為です」と答え、「指導者が怠けている証拠」であるとした。
引用:Wikipedia
この意見に対しては賛否両論ありますが、やはり時代の背景に沿った指導方法が必要になるのでしょうね。
野球を極めたいことで大学院を修了後、解説者や評論家としても活躍しているのです。このように桑田真澄が成功できた理由は名言にもあるように、自分を信じて考え抜いて実行したこと。そして強い思いで継続したことが、成功に繋がったのではないでしょうか?
これは練習であれ勉強であれ、全てのことに言えると思うのです。私も文章のスペシャリストになることや、名を残すことに目標を置いています。
今後は桑田真澄のように、「達成するにはどう行動したらいいのか?」これをシッカリ考えて実行するのがいいのでしょうね。一歩ずつ進み、有言実行させたいと思います。
まとめ
桑田真澄は小さいときからエスカレーターのようにちっとも努力していない天才と思いきや、行動派タイプだったんですね。着実に成功に近づけるよう、ゆっくり進んでいくのがいいです。自分自身を信じて・・・。
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