中村紀洋は、いてまえ打線の中心的人物です!パリーグを盛り上げてくれました。
中村紀洋の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
中村紀洋の名言の意味とは?
中村紀洋は、ホームランをかっ飛ばした和製長距離バッター。豪快なスイングに、魅了されました。またジャニーマンとして、日米6球団を渡り歩いた人物で有名です。
色々なチームを渡り歩く選手のこと。
そんな中村紀洋の名言がこちらになります。
速いスピードの球の縫い目が見えるというのは、まさに巨人の星ばり。
意味がこちらです。
「投手が投げてきたボールが止まって見える。」という言葉は、好成績を残した偉人になるほどよく言います。ただこの境地に行きつくまでは、日々の惜しまない努力が必要です。少しでも「これくらいでいいっか!」という妥協があれば、当然この場所にはたどり着けません。
中村紀洋の名言をもうちょっとわかりやすく言い換えるのなら、練習のときから本気で取り組まなければ結果は出せないということなのです。
このことを会社に勤める人でたとえると、プレゼンをする準備の段階で丹精込めて取り組む人も多いでしょう。しかしいざ本番になると思うように話せないことや、一番伝えたかったことが伝わらないこともあります。
その原因は、準備が足りなかったか、方向性がずれていたから。つまり練習から本気でやっておかないと、普段通りに力が発揮できなくなるのです。
日頃の積み重ねで土台ができ、ゾーンという異次元の体験を可能にします。中村紀洋の名言には、このような内容が隠れていたのです。
中村紀洋とはどんな人?
中村紀洋は1973年7月24日生まれで、大阪府大阪市東淀川区の出身。近くに新大阪駅がある地域です。
父親は元高校球児で母がソフトボール選手だったので、ものごころつく前に野球を始めました。
最初は地元の阪神ファンでしたが、両親の影響から巨人ファンに変わったのです。そのため小学校時代は中畑清に憧れてバットを放り投げる練習をしたのが、後にバッティングスタイルと確立しました。
中学も野球を続け、高校は大阪府立渋谷高等学校に進学。2年生時1990年の全国高等学校野球選手権大阪大会では4番打者として4本塁打とけん引し、夏の甲子園に大阪府立高校の8年ぶり出場と貢献しました。
結果的に高校通算で35本塁打してスカウトに印象付けて1991年度ドラフト会議で近鉄バファローズから4位指名を受け、入団になったのです。
身長は180センチ、体重は93キロ。ガッシリとした大柄な体格ですね。
中村紀洋の功績とは?
中村紀洋は近鉄に13年・ドジャースに1年・オリックスに1年・中日に2年・楽天に2年・横浜に4年の合計23年を、野球に全うしました。その間に取ったタイトルは、本塁打王1回・ 打点王2回・最高出塁率1回。
表彰は、ベストナイン・ゴールデングラブ賞・月間MVP・JA全農GoGo賞・スカパー! サヨナラ賞・日本シリーズMVP・オールスターゲームMVP・オールスターゲーム優秀選手賞、敢闘選手賞・花のパリーグ大賞・サンスポMVP大賞・ゴールデンスピリット賞。このようにたくさん受賞しました。
また通算で2,106本のヒットを打ち、名球会入りをも果たしているのです。
ただバッティングばかりの面がよく見られますが守備の面でゴールデングラブ賞を7回も取り、三塁手部門で松田宣浩と並ぶNPB最多タイ記録を保持しています。
十分功績を残していますが、指導者としても認定を受けているのです。
2016年1月下旬には、全日本野球協会主催の2015年度野球指導者講習会で、大久保博元と共に打撃実技指導の講師を担当。2月2日付で、日本学生野球協会から、学生野球資格回復の適性認定を受けた。
引用:Wikipedia
野球人として、素晴らしいと思いますよ。今後は若手の育成に、力を注いでもらいたいですね。
中村紀洋が野球で成功できた理由とは?
中村紀洋はプロ野球人生の23年、いろいろな球団を渡り歩きました。引退後は中学・高校野球の指導者や野球解説者と、活躍しています。野球で成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?
やはり、「ここで振りに行かなきゃ打てないっていう瞬間、ボールはピタッと止まります。そういう時はボールの縫い目まではっきり見えるんです。」の名言が大きくかかわってくるのです。
というのも中村紀洋は、毎日バットを振ることを欠かさず続けていました。このように言っていますよ。
「中途半端だけはしませんでした。守備でもバッティングでもね。人が練習してるからやろうかな、では無理。自分自身にやる気がなければ練習も努力もできないし、変わっていけないと思います。僕は小学3年からリトルリーグで野球を始めて、高校3年生で最後の大会が終わり、プロに入るまで、毎日30回バットを振っていました」
引用:日本通運
30回という回数は、少ない数だと感じるでしょう。しかし理由は、以下のように答えていますよ。
「しっかりと身体全体を使ってフルスイングしたら、そんな1000回とか振れませんから。試合のつもりでベストのスイングを30回やるとしんどいですからね。僕はそれが生きたし、結果的にこのおかげでプロになれたと思っています。休みなしで毎日ですよ。1月1日に初詣とか行ったことなかったですからね」
引用:日本通運
また中村紀洋と言えば、フルスイングが象徴的なバッターでした。思いっきり振ることを毎日続ける重要性は、このように言っています。
「身体を作るという意味でもすごく重要なんです。12歳とか15歳くらいの年代はこれからまだまだ大きくなってくるところですから。ウエートトレーニングでは鍛えられない筋肉というものがあるんです。バットを振ることが仕事になる、それを目指している人がバットを振らないでどうしますか。バットを振る筋肉はバットを振ることで付くんですよ。毎日、コツコツ続けることでいつか芽が出て花が咲く。でも、それがいつか分からない。だから妥協してしまう」
引用:日本通運
引退して野球を指導するようになってからは、気持ちが大事とわかったようですね。
野球が上達するために最も大事なのが「意識」だと思います。例えば素振りを例にとっても、ただ100回漠然と振るより、30回全身を使って振る方が身になります。キャッチボールもそうです。ボールをどうやって握って投げているか、どの位置に投げれば相手は捕りやすいか。基本的なことかもしれませんが、実はこの基本をおろそかにしているケースが非常に多く見受けられます。
引用:Full-Count
何でもいい加減に練習するのではなく、シッカリしないといけないのでしょうね。経験してきたからこそ言える言葉です。
このように中村紀洋は、意識を持って練習をしたこと。また継続して続けたことが、野球で成功できた理由ではないでしょうか。
私は世間に名を残したいと思い、毎日奮闘しています。中でも文章力を鍛える意味でお手本の書籍を書き写す写経を、毎日欠かさず行っていますよ。
その成果も少しずつ出て、役職での書類作成やメールのやり取りも任されるようになりました。継続は力なり!という言葉の重要性が体感できています。これからも精進し中村紀洋のように成功したいと、心に誓いました。
まとめ
中村紀洋の練習はプロに入ってからも続き、近鉄時代をこのように言っていますよ。
妥協しない生き方は周囲と衝突もしたが「勝負の世界は結果が全て」と野球の神様に背くことはしなかった。近鉄時代は夜遅くまで飲み歩いても、必ず30分以上の素振り。両手に残った感触を大事にするため、バットを握ったまま寝た。
引用:スポニチ
やはり妥協という心のスキが、技術をそぎ落とす原因なのでしょうね。説得力があります。
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