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野村克也の名言!「うまくいってる時は・・・。」に隠れた内容とは?

元プロ野球選手

 
 
野村克也のむらかつやと言えば、有名なご意見番。さまざまなプロ野球選手やプレーその他の場面場面ををぶった切り、正しく解説してくれます。個人的には、日本代表の監督になってもらいたいのですがね。
 
 
そんな野村克也の名言に、どんなものがあるのでしょう?また隠された意味はあるのでしょうか?今回はその内容も含め、いろいろ掘り下げて見ていきたいと思います。

 

 

野村克也の名言の意味とは?

 
ノムさんの愛称で親しまれている野村克也。今回は彼の名言を取り上げます。その内容がこちらです。
 

うまくいってる時は、まわりに人がたくさん集まる。だけどな、1番大切なのはどん底のときに誰がそばにいてくれたかや。

 
深い言葉ですね。このような意味になります。
 

自分がうまくいっている時は、黙っててもたくさんの人が集まってくれます。でも自分自身がどん底な時は誰もいなくなりますが、その時にそばにいて支えてくれた人が本当に大切な人なんです。

 
この名言は、野村克也自身の経験からくる言葉です。
 
 
エピソードがこちらになります。
 

妻、沙知代の脱税事件で阪神の監督を辞任した時、多くの人が離れて行った。そんな時に手を差し伸べてくれたのが、社会人野球チームを持っていたシダックスの志太勤会長だ。おかげで球界に復帰し、3年間指揮を執り、今度は楽天から声がかかった。苦しい時に、いかに助けてくれる人がいるかが大切だ。

引用:野村克也 100の言葉

 
人の支えは、後々にも影響するのです。
 
 
また野村克也のプロ入り時は、順風満帆でなかったようです。というのも、プロになってからの一年目は全く打てなく結果を残せていない状況だったので、他の選手からも期待されませんでした。そのときに、マネージャーから戦力外通告を受けます。


 
 
でも同じチームのキャッチャーが何人も戦線離脱し、捕手不足となってしまったのです。そこでポジションがキャッチャーの野村克也に、白羽の矢が立ちました。戦力外通告を受けた際のエピソードがこちらです。
 

「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだが、若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。

引用:Wikipedia

 
憎まれ口をたたくマネージャーが、意地悪だと感じますがね・・・。

同じポジションの選手不足が重なったこともあり、さらに強く訴えかけたので心に響いたのでしょう。ある意味この担当マネージャーは野村克也がどん底にいた時、反面教師となって奮い立たせてくれた1人になるのでしょうね。
 
 
そしてこの時期を乗り越え、3年目の春に一軍で抜擢されて開花したのです。
 

野村克也とはどんな人?

 
野村克也は、1935年6月29日生まれ。京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身で、日本海に面している地域で育ちました。毎年の冬に美味しいカニや牡蠣を食べられる、自然に恵まれた土地になります。
 
 
3歳上の兄が一人いて、幼い頃は家が貧乏でした。その兄と一緒に新聞配達やアイスキャンディー売りをして家計を助けていたのです。けれど幼き日の野村克也はその貧乏な生活から抜け出したいと思い、将来は歌手や映画俳優になりたいと思っていました。

でもそこで当時のプロ野球界を賑わせていた大スター、赤バットの「川上哲治」、青バットの「大下弘」。出身地から近いところで活躍していた「大友工」投手に憧れ、プロを志すようになったのです。


 
 
その後、中学二年生で野球部に入部するとすぐに4番・捕手として選ばれました。三年生の時は地方予選でチームが優勝し、京都府の大会でも四強と言われて恐れられたのです。

そして高校でも野球部に入りますが、貧しくてバットを買うことができず、海水を一升瓶にいれて素振りをしていました。このハングリー精神がスゴイ!
 
 
身長は175センチで体重は85キロ。現在のプロ野球選手と比べると、小柄になりますね。
 

野村克也の功績とは?

 
野村克也は様々な功績があり、中でも目立つのが戦後初の三冠王。そして、世界のプロ野球史上で初の捕手での三冠王をとりました。パ・リーグ通算打席数一位などの記録もあります。通算で2,901本のヒットを打ち、堂々と名球会入りしていますよ。
 
 
さらに指導者としての功績は、野村再生工場とも言わせた内容が有名です。他球団から自由契約やトレードで放出された選手を獲得し、すべて活躍させるという離れ業をやってのけました


 
 
中でもすごいのが、田畑一也選手。ヤクルトの監督時にダイエーから獲得後、過去1勝しかしたことのない無名選手を12勝、15勝と再生させたのです。1997年のリーグ優勝の際には、大きく貢献させた投手に成長させました。

その他に小早川毅彦選手や飯田哲也選手、吉井理人選手や辻発彦選手。阪神や楽天の監督時は、新庄剛志選手と山崎武司選手も有名です。野村克也は選手としてだけではなく、指導者としても優れている偉人なんですね。
 

野村克也が成功した理由とは?

 
野村克也は2012年まで、東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督を務めていました。ニューヨークヤンキースで活躍の田中将大投手も、立派に育て上げていますね。

引退後の83歳を過ぎる今でも、テレビや講演活動の仕事をこなしています。「何よりも自分は働く人間」と言うだけあって、選手や監督、そしてプロ野球の現役を引退後も成功したと言えるでしょう。

ただ、なぜ成功できたのか?という疑問が出ると思うのです。
 
 
これはやはり名言の、「上手くいってる時は、まわりに人がたくさん集まる。だけどな、1番大切なのはどん底のときに誰がそばにいてくれたかや。」と言われる大切な人への心配りが人脈や仕事、現在の状況へとつながったのでしょう。


 
 
エピソードとして、このようなものがあります。
 

母子家庭に育ったこともあり身内への情が深く、南海兼任監督時代には選手や裏方のことを常に気にかけていた。猛打賞等でもらったアンダーシャツ、ソックスをダンボールに山ほど積んで選手や打撃投手・ブルペン捕手によく配り、スーツもよく裏方スタッフに譲っていた。

引用:Wikipedia

 
選手はもちろんのこと裏方は縁の下の力持ち的な存在なので、野村克也の気の配りようが人情味の厚さを伺わせます。このような配慮が、チームを一丸に活気づけていたのですね。
 
 
しかし、最も影響があったのは沙知代夫人です。良いときも悪いときも一緒に過ごし、心の支えになっていたのが成功した秘訣なのでしょうね

選手や監督時代に沙知代夫人のアドバイスを受け、たくさんのことを学んだのでしょう。実際に野村克也は、「沙知代は世界にただ一人しかいない」と出版社のインタビューに答えています。

さらに沙知代夫人の存在の影響もあり、「オレも支配下選手だからな」という台詞。そのおちゃらけたセリフでも、愛を感じでしまうのです。
 
 
やはり身内や友達は、本当に心の支えとなります。私も大怪我をして生死をさまよった際に、家族や友達の助けがあったから立ち直れました。支えになる人は、誰にでも必要なのです。感謝の気持ちを忘れず、進んでいきたいと思います。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
成功した人には、必ず心の支えになる人がいるのです。野村克也の人生は、波乱万丈だったと思います。だけど沙知代夫人が大きい存在でした。心の許せる大事な人が、人生には重要なのでしょうね。
 
 
 

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