小笠原道大は、豪快なフルスイングが魅力的な選手でした。試合を観戦中はヒットやホームランを、期待したものですよ。
小笠原道大の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容があるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
小笠原道大の名言の意味とは?
小笠原道大は、ガッツの愛称で知られている元プロ野球選手。豪快にホームランをかっ飛ばし、見てるこちらもスッキリさせられました。
そんな彼の名言がこちらです。
この内容は、過去にインタビューされて出た言葉になりますね。小笠原道大の真面目さが伝わってきます。
意味がこちらです。
目の前のことはいろんな内容であり、選択しなければいけない場合もあるはず。
それは野球選手でも言えますし、会社員・自営業者・主婦でも同じでしょう。目の前の小さいと思える雑事や庶務。その他色んなことがありますが、そこから極めないと次へ進むことはできません。
凡事徹底という言葉があります。
当たり前のことを徹底的に行うこと。
今回紹介している小笠原道大の名言にも通じる言葉で、凡事と言えるありきたりな当たり前なことも、しっかりと取り組めば成長できるのです。
プロ野球界に身を捧げている選手はよほどの天才以外、団栗の背比べ状態の能力で入団します。それ以降に差がつく理由は、やはり小笠原道大の名言のように、目の前のことや一瞬のプレーを大切にしたかどうかなんです。
自分が何をすべきか?なんの課題が今の自分にはあるのか?小笠原道大の名言には、改めて考えさせられる内容。そして実行すれば、成功に近づくことが隠れていたのです。
小笠原道大とはどんな人?
小笠原道大は1973年10月25日生まれで、千葉県千葉市の美浜区出身です。同郷の出身者には、石井一久・掛布雅之がいますね。
過去に石井一久・掛布雅之について、書いた記事があります。お時間がある際にお読みいただけるとありがたいです。


小笠原道大は7歳から野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーしていました。
チームで目立った選手ではなく、中学も黙々と野球を続けたのです。高校は暁星国際高等学校に進学。それまでは遊撃手・三塁手・外野手と、オールラウンドプレーヤーでしたが、二塁手もしくは捕手をすることになったのです。
3年時の夏の大会は決勝に進みましたが成田高校に負け、甲子園出場は叶いませんでした。高校通算でホームランは2本しか打てず、注目された選手ではなかったようです。
卒業後はNTT関東に入社し、捕手をしました。その後1996年の第67回都市対抗野球で勝ち越しの本塁打や準々決勝に進むまで活躍。ついに1996年ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受け、入団することになったのです。
現役時の身長は178センチ、体重は84キロ。小柄なホームランバッターでしたね。
小笠原道大の功績とは?
北の地でサムライと呼ばれた、小笠原道大。日本ハムで10年・巨人で7年・中日で2年の、19年間をプロ野球の現役で頑張りました。
その間にタイトルは、首位打者2回・本塁打王1回・打点王1回・最多安打2回・最高出塁率1回。
表彰は、MVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・月間MVP・「ジョージア魂」賞・東京ドームMVP・パリーグ連盟特別表彰・セリーグ連盟特別表彰・IBMプレイヤーオブザイヤー賞・報知プロスポーツ大賞(野球部門セ・リーグ)・ゴールデンスピリット賞・千葉市市民栄誉賞・市川市民栄誉賞・千葉県知事賞を受賞。
また通算で2,120本のヒットを放ち、名球会入りも果たしているのです。ここまででも十分に功績を残しています。
ちなみに連覇を達成した2009年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督だった原辰徳は、この時の功労者のトップを、小笠原道大と言っていますよ。さらに2016年シーズンからは中日ドラゴンズ二軍監督を務め、若手の育成に力を入れているのです。
現役時は、選手の手本となっていたようですね。
豊富な練習量に、こだわり抜いた体のケア。その後ろ姿は、まさに若手の手本となった。遠征先では毎日のように裏方さんを食事に誘い、日頃の感謝も忘れなかった。坂本や長野らは千葉の自宅にも招かれたことがあるという。各地方で見つけた焼き肉店を回る通称「ガッツ会」は、中日に移籍しても継続していた。牛から豚に変わってしまったが、何度も名古屋市内のしゃぶしゃぶ店で一行に遭遇することがあった。
引用:サンスポコム
まさに現代日本の野球界において、努力と律義なサムライと言える選手ですね。
小笠原道大が野球で成功した理由とは?
小笠原道大は日本ハム⇒巨人⇒中日と移籍し、野球人生を全うしました。2016年より中日の二軍監督を務め、野球に関わっています。まさに所属するチームに対し、名誉を賭けて信念のもと献身的に戦うサムライ精神で野球人生に捧げました。
ここまでくれば、成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ成功できたのか?やはり、「目の前のことをしっかり、一瞬、一瞬のプレーに気を抜かずにやる。そうすれば自ずと光は見えてくる。」の名言が、大きくかかわってくるのです。
というのも小笠原道大は日頃から1日1日の自分ができることを、精いっぱい努力していました。中日に移籍した際に球団スタッフがその光景を見て、驚いていたようですよ。エピソードがこちら。
試合開始の8時間前には球場に入り、体幹トレーニングをはじめ、細部にわたる筋力トレーニングを行う。中日に行っても変わりなし。デーゲームでも、2軍のゲームでも、球場1番乗りは日常だった。練習を見た球団スタッフは「あんな地道な練習を毎日繰り返す気合がすごい」と驚いていた。
引用:Full-Count
さらに巨人時代の練習内容も、過酷でした。
ティーバッティングでも、1キロのバットに1キロの重りをつけ、片手で1球1球、ボールを面に合わせて、スイングする。真似した若手が5球でギブアップしたこともあった。同じ練習をひたすら繰り返す。「1日1日、自分ができることを精いっぱいやるだけですから」と弱音などは漏らさずに反復練習をしてきた。
引用:Full-Count
このような練習内容がチームに浸透するとは、カリスマ的存在だったのでしょうね。
全体練習よりも早い時間帯に個人トレーニングを開始する小笠原の「アーリー・ワーク」は少しずつチームに浸透。小笠原が残したもののひとつである。
引用:Full-Count
本練習よりも早くグラウンドに入り、体幹トレーニングをするための時間のこと。
実際に巨人に移籍した際の影響は大きく、ベテランにこのように言われていました。
最年長の高橋由伸と同じく生え抜きで当時キャプテンであった阿部慎之助の対談では、小笠原が巨人というチームに吹き込んだ新しい風は、二人がルーキーの頃から伝統のように続いていた、試合に負けたら誰もしゃべらずクライマックスシリーズなどの一発勝負に負けたような空気になってしまうというチームの特質を一変させるものであったと述べている。
引用:Wikipedia
チームをも変えてしまうことは、存在自体が素晴らしいのでしょうね。
このように小笠原道大は、目の前のやるべきことを黙々と続けたこと。誰よりも率先し、手を抜かずに練習したことが、野球で成功できた理由ではないでしょうか?
私は世間に名を残したいと思い、まず文章力を付けたいと日々練習を怠らないようにしています。お手本の本を写す写経は、毎日欠かさず行っていますよ。
文章力が上がったせいか書類作成やメールのやり取りを、いつも任されるようになりました。依頼された内容はボランティアになりますが、役に立つよう引き受けるようにしています。私も小笠原道代のように継続して頑張り、成功をつかみ取ろうと心に誓いました。
まとめ
小笠原道大はガッツという呼ばれ方をしていますが、理由があったのです。
名づけ親は当時チームメイトだった岩本勉、上田佳範、片岡篤史、建山義紀、金村暁、金子誠の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女性に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだというが、その後小指を骨折した状態でホームランを打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる。
引用:Wikipedia
ガッツクというのが面白い。意外な一面でした。
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