谷繁元信は、横浜と中日でキャッチャーだった元プロ野球選手です。グラブさばきが巧みでしたよ。
谷繁元信の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。
谷繁元信の名言の意味とは?
谷繁元信は横浜の38年ぶりリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、セリーグを代表する捕手だった選手。
後に中日に移籍し、監督をも務めあげましたよ。そんな有名人の名言がこちらです。
この内容は、過去にインタビューされて出た言葉。
意味がこちらになります。
人は他人から言われるよりも、自分自身で気づいたことの方が大きく記憶に残ります。中でも、失敗から学べれば、自分の中で深く教訓にできるのです。
気付けるかどうかは普段から自分自身の頭で考えて、周りを見ているかどうかにかかっています。仕事でもそうじゃありませんか?先輩や上司から言われてやっと気付ける人よりも自分から率先して動き、学んでいける人の方が伸びていきます。
自学自習という言葉のように他から教わらずに自分一人で学習する、その姿勢が大切なんです。自ら新しい課題に取り組み、そして作っていくくらいの意気込みがないと大きな成果にはつながりません。
自分が信じた道を突き進んでこそ、この世に生まれた意味を見出せるものです。大きな成果を出すために率先して仕事などにも取り組みたいものですね。
谷繁元信の名言には、このような内容が隠れていたのです。
谷繁元信とはどんな人?
谷繁元信は1970年12月21日生まれで、広島県比婆郡東城町(現:庄原市)の出身。自然豊かな場所で育ちました。
野球は父の影響で、小学校2年生時に地元の少年野球チームに入って始めたのです。子供の頃から巨人のファンで、原辰徳に憧れていたようですよ。小学6年時にはすでに頭角を現し、広島県内の野球関係者に知れ渡っていたようです。
中学も野球を続け、高校は広島県立広島工業高等学校に受験し不合格。やむなく県外の江の川高校に進学したのです。その後甲子園に2度出場。特に1988年の夏には第70回全国選手権の島根大会では5試合すべての試合で計7本塁打を放ち、甲子園大会でもベスト8に進出しました。
高校通算で42本塁打を放ち、プロのスカウトに印象付けたのです。その結果、1988年度ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団が決まりました。
現役時の身長は176センチ、体重は81キロ。ガッシリタイプのキャッチャーですね。
谷繁元信の功績とは?
谷繁元信は横浜で13年・中日で14年を、プロ野球で頑張りました。個人タイトルは獲得できませんでしたが、いろいろ表彰されています。
内容としては、ベストナイン:1回・ゴールデングラブ賞:6回・最優秀バッテリー賞:4回。その他に、JA全農GoGo賞・日本シリーズ優秀選手賞・コミッショナー特別表彰・庄原市ふるさと功労賞・庄原市市民栄誉賞と、多くを受賞しています。
通算で2,108本のヒットを打ち、名球会入りも果たしているのです。ここまででも十分功績を残しています。
さらには引退後、中日の監督を3年任されました。残念ながらリーグ優勝は果たせていませんが、選手に与えた影響が大きかったのです。
各選手がいろいろ語っていますよ。
千葉ロッテ正捕手だった里崎智也は、谷繁の捕球技術の高さを示す一例としてミットの面を常に投手に見せたまましている点を挙げ、「僕がナマで見た中で一番上手い」と絶賛している。2017年シーズンから中日1軍バッテリーコーチに再就任した田村藤夫は、谷繁のキャッチングは「高度」「特殊」「難しい」としており、一般的な捕球でも低めの球をストライクに取って貰えたらいいと指導している。チームメイトの山本昌からは「バッテリーを組んだ勝ち星順でいえば、中村武志、谷繁元信、矢野輝弘」と前置きをされた上で、リード面に関しては「3人の中で最も長けていると思う。なおかつ、度胸満点。いわゆる『ばくち』を一番打てる捕手と言ってもいい」と評価されている。
引用:Wikipedia
このように一人の野球人として与えた功績は、本当に大きかったのでしょうね。
谷繁元信が野球で成功した理由とは?
谷繁元信は横浜から中日に渡り、27年間の野球生活を全うしました。続けて3年を中日の監督を任され、その後野球解説者や野球評論家として仕事を続けています。ここまでくれば勝ち組として、成功したと言っても過言ではありません。
では、なぜ野球で成功できたのか?
やはり、「自分で必要だと気づけたこと。それが結果的に今に役立っている。気づけるか、気づけないかの差は、日頃から自分で考え、周囲を観察しているかどうか。」という名言が、大きくかかわってくるのです。
というのも谷繁元信は練習の大切さに気付け、日頃からもしもを考えて対処していました。
小さいミス、防げるミスは、絶対にしてはなりません。だからこそ、日頃の練習からそれを防ぐ癖をつけておかなくてはいけない。そう僕は思っています。
選手たちは「本番になればできる」と軽く考えているのかもしれません。しかし、試合では瞬時の判断が必要です。考えている時間はありません。だからこそ、体が勝手に動くようにしておかないといけないのです。体に覚え込ませるには、練習から本番どおりの動きで反復練習をしておくしかありません。
引用:東洋経済新報社
経験しているからこそ言える言葉です。
また、このようにも言っていますよ。
試合の中には「ゲームをつくる1球」があります。簡単な例で言うと、コントロールの悪いピッチャーが初回にデッドボールを当ててしまったとします。すると、相手チームのベンチは「俺にも当てられるかもしれない」という意識が働き、それがバッティングにも影響します。もちろん、デッドボールを与えてしまったピッチャー側にも影響が出ます。
結果として「あの1球が勝負の分かれ道だった」ということになるケースがとても多い。それが、野球というスポーツの特徴です。だからこそ、1球のミスも許されない。そのことに気づいてから、1球にかける思いはさらに強くなりました。
引用:東洋経済新報社
ん~難しい内容。どっちに流れが行くのかわからないです。それだけ1球の与える大きさが、絶大ってことなんでしょうね。
さらには長い目で見ると、そのときの結果だけがすべてではないようです。
「プロの世界では結果がすべてだ」とよく言われます。ですが、僕はプロセスのほうが大事だと思っています。
そして、「偶然生まれたよい結果」よりも「根拠ありきで考えた末の失敗」のほうが次につながると信じています。結果がよかったからそれでいいという考え方では、次の勝利にはつながりません。
引用:東洋経済新報社
奥が深いです。このように気付けたからこそ、27年の野球人生を全うできたのでしょうね。実際にこの考えはビジネスシーンでも活用されていて、企業からもインタビューされているようですよ。
以上のことから谷繁元信は、普段から緊急時を想定して練習していたこと。さらに結果より勝利へ導くプロセスが大事と気付け、何事も考えて取り組んでいたことが、野球で成功できた理由ではないでしょうか?
私は世間に名を残したいと思い、毎日奮闘しています。そのために文章力を強める必要があると、お手本となる本を書き写す写経を毎日続けていますよ。日本語の使い方が良ければ、どの場面でも活用できますからね。
さらに成功の目標を高くに置き、プロセスも考えながら行動しています。私も谷繁元信のように成功できるよう、努力を惜しまずに頑張りたいです。
まとめ
中日時代の監督だった落合博満からは、大絶賛の信頼を得ていました。
落合博満が監督時代に「一番いなくなったら困る選手」と言い切るほど、捕手としての信頼を得ている。実際に2011年(142試合を消化した時点)は谷繁がスタメンマスクを被った81試合は勝率6割台、そうでない61試合は勝率4割台と、約2割の差があった。
落合は監督退任会見で、谷繁の名前を挙げて、「よい指導者になれる」と褒め称えた。
引用:Wikipedia
ここまで信頼されるのは、凄いことです。改めて感心しました。
コメント