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石井琢朗の名言!「結果はひとつですけど…」に隠された内容とは?

元プロ野球選手
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石井琢朗いしいたくろうは、横浜や広島でヒットを量産したプロ野球選手です!左打ちで足が早く、ピッチャーにとって嫌なバッターだったと思いますよ。
 
 
そんな石井琢朗の名言は、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 

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石井琢朗の名言の意味とは?

 
石井琢朗は本名を石井忠徳と言い、名球会に入っている有名な選手です。ちなみに登録名の琢朗は、野手に転向する際に大きく成功できる字画の名前として、高校時代の先輩からアドバイスされて付けた名。
 
 
名言がこちらです。
 

結果はひとつですけど、状況に応じて過程はいろいろ、方法もたくさんあります。

 
この言葉は引退後にコーチとなり、野球についてインタビューをされたときに出たものです。
 
 
意味がこちらになります。
 

成功するか失敗するかの結果は1つですが、そこに向かうまでの方法は、いろんなことがあるのです。まずやってみないことには、何も分からないのです。

 
勝負の結果は、勝敗の一言でまとめられます。しかしその過程や方法は多様で、さまざまなアイディアを考えて実行することで成果が生まれるのです。


 
 
たとえば野球のことをこよなく愛していてもプロ野球選手になれなかった人もいます。

同じ競技に携わると、選手もいれば審判も存在するのです。また運営に関わって、影からチームを支える人もいます。この役割一つでも欠けていたら、野球というエンターテインメイントが完成していません。
 
 
一人一人の人生にはそこまで辿り着く方法や過程は違いますが、ストーリーやドラマがあるのです。石井琢朗の名言は、何でも挑戦することに対しての後押し的な内容が隠れているのでしょうね。
 

石井琢朗とはどんな人?

 
石井琢朗は1970年8月25日生まれで、栃木県佐野市の出身です。栃木県と言えば、日本一のいちご産地とも言われる場所。その他にピンポイントに言えば、佐野ラーメンでも有名ですね。


 
 
その土地で、小学校3年生のときに野球を始めました。このころのクラスの文集には、「巨人にドラフト一位で入りたい。」と書いていたというから驚き。

中学も野球を続け、高校は栃木県立足利工業高校に進学します。当時は1年時から背番号1のエースナンバーを背負い2年時に夏の甲子園に投手として出場しました。

その後横浜のスカウトだった江尻亮氏が、他チームの選手を見に行った際に石井琢朗の素質を見抜いたのです。しかし東洋大学に進学が決まっていたため、どの球団からも指名されませんでした。そこで強引な形をとり、1988年オフにドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団したのです。
 
 
現役時の身長は174センチ・体重は78キロ。小柄で足が速いのは、ピッチャーにとって脅威的な存在だったと思いますよ。
 

石井琢朗の功績とは?

 
石井琢朗は大洋・横浜、広島と移籍し、プロ野球人生を全うしました。その間に獲得したタイトルは、盗塁王4回・最多安打2回通算で2,432本のヒットを打ち、名球会入りを果たしています。

表彰は、ベストナイン・ゴールデングラブ賞・JA全農Go・Go賞・日本シリーズ優秀選手賞・セントラル・リーグ特別功労賞・栃木県民栄誉賞・佐野市民栄誉賞・足利市スポーツ特別賞と、数多く受賞しました。

ここまででも、十分野球で功績を残していると思います。
 
 
さらに石井琢朗は、チャリティーにも貢献していますよ。


 

ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市社会福祉協議会へ寄付したりするなど、チャリティー活動にも積極的であった。

引用:Wikipedia

 
社会にも貢献している姿が素敵ですね。
 

石井琢朗が野球で成功した理由とは?

 
石井琢朗は、大洋・横浜に20年、広島に4年。引退後は、広島やヤクルトでコーチを任されています。このように高校を卒業してからずっとプロ野球に携わり、野球で成功したと言っても、過言ではありません。では、なぜ成功できたのか?

やはり、「結果はひとつですけど、状況に応じて過程はいろいろ、方法もたくさんあります」の名言が、大きくかかわってくるのです。
 
 
石井琢朗は小さいころからプロ野球選手になるのが夢で、まず実現させるために方法を考えたのです。


 

僕の場合は,中学生になったとき,自分の可能性を信じながらも,どこかで自分を認めていない部分がありました。そういう葛藤の中で,「どうしたらプロ野球選手になれるのかな」と考えてみました。

まず,プロ野球チームにいるスカウトたちに認められなければいけない。

そのためには,ある程度,名前を売らなければいけない,目立たなければいけない。

目立つためにいちばん早いのは,甲子園に出場すること。

甲子園に出場するためには,その可能性のある高校を絞る。

その高校に行くためには,野球も勉強も一生懸命やらなければいけない。

このように考えたら,おのずと,今,自分が何をするべきかが見えてきたんです。

引用:光村図書出版株式会社

 
何でも実現させるためは、具体的な方法が必要なんですね。
 
 
また、もともと高校からピッチャーでプロに入りましたが、二軍では好投するものの一軍で結果を残せず、野手に転向を希望したのです。当時のスカウトの江尻亮氏が、このようなエピソードを言っています。
 

入団後は石井に何度も野手転向を訴えられた。まだ投手だった2年目、手のひらは素振りでマメだらけ。野手よりもすごかったという。しかし、賛成しなかった。「ヒザが弱かった。野手でやるよりも走ること、体づくりが先だった」。

引用:日刊スポーツ

 
それでも石井琢朗は野手転向をあきらめきれず、監督に申し出たのです。
 
 
ただ当時の須藤豊監督は、このように考えていたようですよ。
 

もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。

引用:Wikipedia

 
そこから打撃や守備に対して試行錯誤し、名球会にも入る名打者に成長していったのです。
 
 
現在、コーチとして活躍する側から球児に向け、このようなことを言っていますよ。
 

今はどうしてもいろんなものが発達してるので、トレーニングに関してもウエイトトレーニングひとつにしても、全然ひと昔前とは違うと思うんですよ。メニューがしっかりしてますし、トレーニングコーチもいたりしますし。そういうところで体力だとか筋力だとかをつけていってます。体つきとかも今の高校生は昔に比べて違うので。

 だけど、それと『振る力』というのは別だと僕は思っているので。
 同じ振るにしても、マシン打撃だったり、人が投げてくれるボールを打つ作業、振る作業って、けっこうみんな振れるんですよね。ボールの力を利用して振ることができるので。ただ『素振り』というのは、何も無いところでただひらすら振らなきゃいけない。その空気のブン!ブン!という音だけで振ってかなきゃいけない。

 はっきり言って一番きつい作業なんですよ。だからそれをいかにできるかというところです、同じ『振る』でも。量を振るにしても、ボールを100球打つのと、スイングを100回全力で振るのとでは、ぜんぜん成果が違うし、振る力も変わってくる。

引用:エンタメウィーク

 
打撃には基礎となる素振りが、一番大事なんでしょうね。経験してきたからこそ言える言葉なので、重みが伝わります。
 
 
以上のことから石井琢朗は、状況に応じての実現方法を考えたこと。それに向け、継続的に人より練習を積み重ねたことが野球で成功できた理由ではないでしょうか?
 
 
私は文章のスペシャリストになりたいと、日々、記事を書いています。さらに練習としては、お手本となる本を写す写経も毎日実践していますよ。そのせいかプライベートで任されている役職で、トップから書類作成やメールの返信を依頼されるのです。
 
 
やはり状況に応じての実現方法を考え、人より練習の積み重ねが重要になってくるのでしょうね。私も石井琢朗を見習い、頑張ろうと誓いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
石井琢朗は、地元の栃木県佐野市の高校生が町おこしに取り組んでることを知り、ひと役買って出ていました。
 

出身地である栃木県佐野市の佐野松陽高校の生徒がいもフライを使って町おこしに取り組んでるとの記事が紹介された。これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果横浜スタジアム内レストランにて5月14日より販売が実現した。シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。広島に移籍後の2009年にもMAZDA Zoom-Zoom スタジアムの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博した。

引用:Wikipedia

 
こういう行為が、栃木県の人からも愛されているのでしょうね。素晴らしいです。
 
 
 

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