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吉井理人の名言!「メジャーに行って覚えたのは…」に隠された内容は?

元プロ野球選手
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吉井理人よしいまさとは、日本球界やメジャーリーグで活躍したピッチャーです!コーチとしても名高い人ですよ。
 
 
吉井理人の名言には、どのようなものがあるのでしょう?隠れた内容はあるのでしょうか?今回はその辺を、見ていきたいと思います。

 

 

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吉井理人の名言の意味とは?

 
吉井理人は日本球界で史上初のFA権行使により、メジャー移籍を実現した人物。ある意味その道を開拓した、パイオニアにあたりますよ。


 
 
名言がこちらです。
 

メジャーに行って覚えたのは自己管理。やらされる練習ではなく、生き延びるための練習が自然と身についた。

 
これはソフトバンクでのコーチ時に、インタビューされて出た言葉。
 
 
意味がこちらになります。
 

メジャー挑戦でアメリカに渡ったとき、自己管理能力の大切さを学びました。ただ他人から言われたことをしたのではなく、知らず知らずにメジャーで生き残るための練習で、自分自身で考えて管理するコントロール力がついていたのです。

 
何事もやらされてる感があると長続きしませんし、何より成長もできません。生き延びるためには、率先して動く姿勢が不可欠です。それは野球選手でもサラリーマンも、職種が違えど考え方は全て一緒。

今は、大企業ででも正社員がリストラされている時代です。言われてこなしているだけの人は生き残れません。成長を見越して、自分から仕事の仕方を学びましょう。

そうやって努力をすれば、仮にリストラになってしまっても他の会社に行って通用する人材になれます。
 
 
また人が自分の能力を100パーセント以上を出すためには、自己管理が前提条件です。体調が悪いのに、全力で力を出せる人なんていません。

具体的な方法は、食事・運動・睡眠を徹底して管理すること。そうすれば、体調が安定して結果を残しやすくなります。吉井理人の名言には、このような内容が隠れていたのです。
 

吉井理人とはどんな人?

 
吉井理人は1965年の4月20日生まれで、和歌山県有田群吉備町の出身です。現在の有田川町で、有田ミカンが有名な場所。


 
 
御霊小学校・吉備中学校のときは野球一本でやっていたのではなく、陸上や柔道などもあわせて行っていました。なんと陸上での円盤投げは、和歌山県1位、近畿大会2位という成績を残したのです。

しかし箕島高校に進学し、野球一筋に専念しました。結果、2年の春に、控え投手として甲子園初出場。3年夏にはエースとして、2度目の甲子園出場を果たしたのです。

そこでの活躍がプロのスカウトに注目され、1983年秋のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受け入団。
 
 
現役時の身長は188センチ、体重は95キロ。ガッシリタイプの体格でした。
 

吉井理人の功績とは?

 
吉井理人は近鉄10年⇒ヤクルト3年⇒ニューヨークメッツ2年⇒コロラドロッキーズ1年⇒ワシントンナショナルズ2年⇒オリックス4年半⇒ロッテ半年と、渡り歩きました。

獲得したタイトルは、1988年に最優秀救援投手1回。表彰は、日本球界で、月間MVP:2回・ファイアマン賞:1回・優秀JCB・MEP賞:1回メジャーではグッドガイ賞:1回・ジョン・J・マーフィー賞という賞を、受賞しているのです。

通算で121勝(日89/米32)なので、残念ながら名球会入りを果たせていません。
 
 
ピッチングコーチは、以下のように任されているのです。
 

  • 北海道日本ハムファイターズ (2008 – 2012)
  • 福岡ソフトバンクホークス (2015)
  • 北海道日本ハムファイターズ (2016 – 2018)
  • 千葉ロッテマリーンズ (2019 – )

 
さらには筑波大学大学院の人間総合科学研究科博士前期課程体育学専攻野球コーチング論研究室の学生として、野球のコーチング理論を研究活動しています。


 
 
素晴らしく研究熱心で、頭が下がりますね。このように残した功績は、多くあるのです。
 

吉井理人が野球で成功した理由とは?

 
吉井理人は、日本球界で18年・メジャーリーグで5年。引退後は、日ハム・ソフトバンク・ロッテと、ピッチングコーチを任されています。ここまで来れば、野球で成功したと言っても過言ではありません。


 
 
では、なぜ成功できたのか?

やはり、「メジャーに行って覚えたのは自己管理。やらされる練習ではなく、生き延びるための練習が自然と身についた」の名言が、大きくかかわっているのです。
 
 
というのも吉井理人は現役時からピッチングに関して、自分自身で考えるということを行っていました。そして身近な存在だった野茂英雄に競馬を教えた見返りで、フォークボールを教わったのです。

実際に、「僕のフォークボールは野茂直伝のものです」と語っています。その結果から、ピッチングが好調になりました。
 
 
エピソードがこちら。
 

それまで150km/h近い直球で奪三振を取っていた吉井だが、当時主に投げていた変化球もシュートだったためストッパーとしては奪三振数が少なかった。しかしフォーク習得後は先発で奪三振を取るのが増え、1996年には145奪三振を獲っている。

引用:Wikipedia

 
さらに引退後に任されたコーチでうまくいかず、大学院にも入っていますよ。素晴らしい考え方です。
 

日本ハムコーチ時代(第1期)の指導に対する反省から、「自分の経験を理論で理解したうえで、言葉で説明できるようになりたい」として、野球コーチング論研究室で野球の指導に関する理論などを研究するようになった。

引用:Wikipedia

 
大学院で学んだ結果、実際に手に入れたテクニックがこちら。やはり心理面が、大きくかかわっていますね。
 

試合中、追い詰められた投手にマウンド上へ声を掛けにいくときは、パニックになった投手の意識が自分自身に向かっている内向きの状態なので、なるべく意識を外に向けさせることを考える。あえて野球の話題ではなく、「お前、出身地どこやったっけ?」とか「出身校どこ?」なんて投げかけ、一瞬意識をずらす。そこで「○○県の意地の見せどころや!」と鼓舞するわけだ。
さらに捕手も若手のときはバッテリーで浮き足立ってしまう。すると、内野を守るベテラン陣に「どうしたらええ?」と投手コーチからアドバイスを求めるケースもあるという。

引用:exciteニュース

 
なぜ吉井理人は、選手の側に立った指導者になろうと思ったのか?理由がこちらです。
 

それは自身のプロ1年目にいきなりコーチから投球フォームのことを指摘され、大混乱してしまい満足に投げられなくなった苦い過去があるからだ。投げるコツを思い出そうと十代の吉井がたどり着いたのは“自分で考えること”だった。
「人に言われたことだけやっていては、できたとしても一瞬だけで自分のものにはならない。自分で考えて、汗を流して、初めて血肉になる」実体験をもとに吉井コーチは指導する。例えば、グラウンド上のオフィス(練習中のセンターフェンス前)に投手陣たちを集め、前日の一場面について登板した投手を中心に「俺はこう思う」「自分ならこうする」と意見をぶつけ合う。例え物別れに終わっても、その繰り返しが思考を回す訓練になるという。

引用:exciteニュース

 
まさに名言のように考えることで、成長できたのです。
 
 
このように見ると吉井理人は、自分自身で何事も考えて実践したこと相手を気遣う気持ちや、何事にも自己管理を徹底したことが、成功できた理由ではないでしょうか。
 
 
私は世間に名を残したいと思い、日々頑張っています。中でも日本語となる文章力を付けようと、手本となる本を写す写経を毎日訓練として行っていますよ。ありがたいことに成果も出て、ブログ記事も評価されてきました。

さらに人と話をするときは気遣いを心掛け、相手を思いやって接しています。健康管理も、シッカリ行っていますよ。私も吉井理人はのように成功したいと、心に誓いました。
 

まとめ

 


応援よろしくお願いします。m(__)m

 
吉井理人は大学院の修士論文を、身近な球界の選手を使って行っていますよ。プロならではで、贅沢な研究です。
 

ソフトバンクの投手コーチ時代には、「クイックモーションの速い投手」という五十嵐亮太・二保旭に対して、指導の合間に聞き取り調査や投球フォームの撮影を実施していた。吉井によれば、この調査や撮影で得られたデータを、修士論文に反映させたという[24]。その結果、日本ハムの投手コーチへ復帰した2016年に、修士号を取得した。ちなみに吉井は、修士論文の口述試験に合格したことを伝える公式ブログ内の記事に、「これで終わりじゃないので,これからももっと勉強していいコーチになりたいと思う」という抱負を記している。
引用:Wikipedia

 
1つのことを突き詰めることが、成功への近道なのかもしれません。オンリーワンがいいのでしょうね。
 
 
 

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